武内孝夫『こんにゃくの中の日本史』

 主として近世から近代にかけて、こんにゃく栽培・流通がどのように変遷してきたかを概説している。
 こんにゃくという植物の特性や生産方法、食用以外の利用法などについても幅広く言及した好著。

 こんにゃくを栽培し始めたのは2003年ころだと思う。
 それからまだ20年ほどしかたっていないが、秩父のこんにゃく畑はずいぶん減ったような気がする。
 山歩きのために、南牧村や下仁田町を通ることもよくあるのだが、やはりこんにゃく畑は減っている印象がある。
 こんにゃくを作り続けるのは、そこそこ難しいのだと思う。

 こんにゃくの難しい点は、病害への対応にある。
 病害の原因は連作障害と排水不良にある。

 排水不良を改善するには、排水不良地での栽培を避けるしかない。
 秩父でゴンベと呼ばれる岩石崩壊土の傾斜地が適しているのだろうが、必ずしもそのような場所があるとは限らないから、こればかりはどうしようもない。

 連作障害の原因が何なのかははっきりわかっていないが、特定のミネラルの欠乏・害菌の繁殖などが複合していると思われる。
 そのため、こんにゃく栽培農家は、早春に土壌燻蒸を行う。
 ここで使われる薬剤は催涙ガスにも使われる劇薬である。

 さらに栽培中、何度も消毒薬を散布する。
 薬害があるため、散布の際には防毒マスクをかけて作業する。
 作業は炎天下の季節に行われるから、たいへんきびしい。

 こんにゃくは、一定の収入も期待できる上、関東ロームで覆われた山間地は絶好の栽培適地なのである。

 本書は、江戸時代にこんにゃく栽培が水戸藩の財政を支えていた背景を明らかにしている。
 久慈郡諸沢村の中島藤右衛門がこんにゃくの製粉技術を開拓したことにより、列島のこんにゃく市場を水戸藩が事実上独占していたからである。
 中島藤右衛門の開発した技術は基本的に、現在も受け継がれている。

 ついでこんにゃく産地となったのは西上州だった。
 下仁田には今もこんにゃく屋さんの看板がところどころで見られる。

 この地域でこんにゃく産業が発達した要因として、著者はまず、栽培環境の好適さをあげている。
 これはそのとおりだろう。
 それ以外に、砥石販売のための流通機構が確立していたことなども述べられているが、詳細は研究してみないとわからない。

 茨城県北部や西上州のこんにゃく栽培が退潮に向かった原因は、基本的には、機械化により人の手による作業量が激減したのが原因だと記されている。
 しかし、栽培の困難性が増しているのも、こんにゃく産地の衰退の要因ではないかと思っている。

 自分でもこんにゃくを作っている。
 連作だけは避けているが、病害よけのための薬剤はまったく使っていない。
 肥料もまったく与えない。

 販売目的でこんにゃくを作るなら重さを増すことが至上命題となるから、肥料の施用は当然であるが、販売せず食えればよしとするなら、大きくする必要がないのだから肥料はいらない。
 肥料がなければこんにゃくは問題なく育つのである。

 現在、こんにゃく王国は、赤城・榛名山麓に移った。
 この地域におけるこんにゃくの将来やいかに ?

(ISBN4-06-149833-9 C0239 \700E 2006,3 講談社現代新書 2024,5,13 読了)

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