明治時代末の社会主義者群像を描いた書。
自由民権運動の激化は秩父事件をピークとし、その後は退潮に向かった。
自由民権派が壊滅したわけでなく、三大事件建白運動の高揚もあったが、国会開設後は主に院内で民党として闘った。
明治憲法下における闘いだったのだから、体制の根本的な変革を求めることはもちろん、言論・出版などのまったき自由を要求する運動も行われなくなった。
自由民権運動が求めたものは、限定的な参政権に終わるものではなかったと思っている。
彼らが口にした「自由」は、究極的には、自分が自分である自由だったと思う。
このことについて究明した研究はないと思う。
明治憲法が実現したのは限定的な参政権にすぎず、自分が自分である自由など、ちっぽけなカケラ程度にしか、実現しなかった。
中江兆民が明治憲法を唾棄したのは、そういうことだったのだと思う。
多くの民権家は、帝国議会の枠内で利害集団の一員として活動するようになった。
彼らにとって帝国議会の議員として国政に関わることは、地域の名士、すなわち地域利害の代表として名を売ることとほぼ同じだった。
そのような構造は、基本的に今も同じである。
明治の自由民権運動の闘いを受け継いだのはやはり、社会主義者たちだった。
明治時代の社会主義は、資本家による労働者の搾取に反対する、素朴なヒューマニズム思想だったが、明治政府にとって天皇制否定につながる危険思想であることに変わりはなかった。
治安警察法が制定されたのは明治33年(1900)年だったが、集会条例の系譜を汲むこの法律は、社会主義運動の弾圧を意図したものだった。
キリスト者と人脈も思想も重なる明治社会主義者たちは、このような時代に苦闘を重ねたのだった。
平民社(1903)は、日露戦争で非戦を主張したことから弾圧と非難を受け、メンバーの拘束・処罰や機関紙の発禁処分などを受けて苦闘していた。
ここに結集した社会主義者たちも、生活の目処さえ立たず、貧しさの極みにあった。
そんな中で、北海道の未開地において共同作業による農業で自活の道を探ろうとしたのが、平民社農場だった。
原野の開拓から始まる素人農業はもちろんうまく行かず、ほどなくして徹底に追い込まれるのだが、本書に描かれる彼らの人となりは楽天的で、虐げられるものへの共感に満ちている。
社会主義の根っこはこのようなヒューマニズムなのであり、自由民権運動の根にあったのも同じなのだと思う。