市民の会編『原発を止めた裁判官』

 志賀原発二号機の運転差止め判決を書いた井戸謙一裁判官の講演を起こしたパンフレット。

 志賀原発は一号機が1993年に運転開始。1999年に、国内で初めてとなる臨界事故を起こした(一号機)が、2007年3月までその事実を隠蔽していた。
 二号機は2006年3月に運転開始。
 同月に金沢地裁が運転差止め判決。
 2009年3月に、名古屋高裁金沢支部が一審を覆し、運転差止め請求は棄却された。
 2011年3月当時は点検のため停止中だったが、福島第一原発事故後に国内の原発が全て停止し、その後も再稼働することなく、現在に至っている。

 講演は、原発問題だけに焦点を当てたものでなく、日本の司法制度、なかでも裁判官という仕事のあるべき姿について、フランクに語っておられる。

 井戸判事は、志賀原発二号機は危険だと判断した理由として、三点あげておられる。

 一点目は邑智潟断層帯が連動して動く可能性があるということ。邑智潟断層帯とは、能登半島の基部近くを横断するように走る断層帯で、今回地震の震源とは重ならない。
 裁判当時の知見ではこの断層帯は全長44キロメートルで、これが連動して動くとマグニチュード7.6の地震が起きるとされていた。
 これら能登半島付近の活断層の危険性については、保安院(当時)の資料にも記されている。

 二点目は、直下型地震を起こす活断層の位置を確定するのは極めて困難で、ほぼ不可能に近く、活断層が錯綜する能登半島での原発立地は危険だということ。

 三点目は、耐震指針の目安を決める際の基準地震動(想定される震度)が低すぎるということ。
 例えば、判決後に起きた2007年の能登半島地震では、運転中に想定される最大地震動は375ガル、ありえないような地震が起きても490ガルなのに、実際に起きた地震動が711ガルだったことを述べられている(基準地震動はその後改定された)。

 井戸氏の想定はほぼ、当たっていたと思われるが、福島第一原発の事故を見た氏は、「考えが甘かった」と述べられている。
 列島とそこに住む人びとの暮らしを根底から破壊する原発事故については、どんなに深く考えても考えすぎることはないのである。

 ではなぜ、原発の建設・稼働停止を求める住民裁判は負け続けるのか。

 井戸氏は、裁判官が専門家の意見を否定することは極めて難しいからではないかと述べられている。
 おそらくそうなのだろう。
 最高裁判事として原発の安全性にお墨付きを与える判決を書いたのち東芝に再就職した人などは、例外だと信じたい。

(ISBN978-4-87798-558-5 C0036 \900E 2013,8 現代人文社 2024,1,7 読了)

月別 アーカイブ