大日方悦夫『満州分村移民を拒否した村長』

 タイトルには満州分村移民を「拒否」とあるが、正確には「積極的な取り組みをしなかった」である。

 満州移民は、満州地方を事実上の領土化した日本が、その完全な植民地化のために内地の農業者を大量に送り込んだ国策だった。

 武力侵略によって他国を領土化し、市場化すると同時に人間・資源を収奪するのが、帝国主義の時代だった。
 後発帝国主義国だった日本は、ロシアとの戦いに勝利して朝鮮半島を獲得し、さらに満州を領土化するために満州事変を起こして、首尾よくその半植民地化に成功した。
 日本は、石炭・鉄鉱石・食糧を満州から収奪することによって国内経済を拡大することができた。

 問題は、いくつか存在した。

 国際連盟や列強は日本に妥協的だったとはいえ、満州を日本の領土だと認めたわけではなかった。
 蒋介石もまた妥協的だったが、張学良ら満州軍閥の生き残りの中には、強い反日感情が残っていた。
 日本は、満州属国化の既成事実をさらに積み重ねる必要があった。
 また、「五族協和」がニセモノだということは、少なくとも国際的には明らかだったから、満州における植民地経営に携わる以外の日本人、すなわち一般の日本人住民の存在を高める必要があった。

 国内をみると、昭和恐慌以来の不況と農村の疲弊はいまだ解決していなかった。
 農村からの収奪が国家の基本だったのだから、慢性的な農村の貧困は、地主制とあいまってさらに深刻化していた。
 根本的な構造にメスを入れることなく問題を解決するため、少壮軍人の中には、天皇親政によって強権的な国家改造を断行すればよいと考えるものもいたが、それは実現しなかった。
 もっとも、現実的な国家改造プランがろくに存在しなかったのだから、天皇親政など行えば、状況はさらに悪化しただろう。
 官僚たちが考え出したのは自作農創設維持事業だったが、それと並行して、満州移民により農村の過剰人口を削減し、自立的な農業経営を可能にしようというプランも、民間に呼応する形で浮上した。

 事実上の植民地になった満州だが、抗日ゲリラの存在は、植民地経営の重い桎梏となった。
 他国を侵略したのだから、それが受け入れられるはずなどなく、従って現地の人々による公然・隠然たる抵抗は必然で、根絶できるはずもなかった。
 さらに北方には、強大なソ連軍が控えており、日本政府は知る由もなかったが、スターリンは満州の奪還を漠然とながら、夢見ていた。(彼の野望が顕在化したのはのちのヤルタ会談においてである)
 抗日ゲリラを掃討し、ソ連軍に備える関東軍を支えるには、ぼう大な後備軍と兵站体制が必要だった。

 満州移民は、満州の日本化と農村対策・軍事的強化を、一石三鳥の形で実現できる妙案と考えられたから、この事業は国家ぐるみで、全国的に取り組まれた。
 統計を見ると、養蚕への依存が大きかった東日本において参加村が多く、もっとも参加村が多かったのが、長野県だった。

 秩父でもそうだったと聞くが、移民の勧誘は、役場や分会だけでなく、学校の教師によっても行われた。
 人間は適応する生き物だが、戦時には、いや戦時でなくても、まともに思考する能力をいとも簡単に喪失する。
 傍目にはおかしなことに見えるが、よくわからない義務感や立場意識などを原動力として、他人に働きかける。
 これは今でも変わらない。

 本書の主人公である佐々木忠綱氏は、そこで立ち止まることができた。
 村長として、国策に反対はできないにせよ、積極的に協力しなかったのは、敬服すべきことだと思う。

 江戸時代前以来、村は、自治機能を持ち続けた。
 明治以降、自治機能は衰えていったが、消滅したわけではない。
 「時代の流れ」などという言葉で、自分が何も考えてない人間だということをごまかさない生き方を、主人公は教えている。

(ISBN978-4-7840-7333-7 C0321 \1200E 2018,8 信濃毎日新聞社 2023,11,18 読了)

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