コミンフォルム結成から朝鮮戦争までを描く。スターリン秘史なので、スターリンの孤独な死でしめくくられている。
1947年にコミンフォルムが作られた。世界の共産主義運動をソ連共産党が直接指導する形を作るためにコミンテルンが解散したのち、国際共産主義運動の新たな指導機関として、作られたのがコミンフォルムだった。
コミンフォルムの最大の仕事は、ユーゴ革命の足を引っ張ることだった。
なぜか。
チトーとユーゴ共産党がスターリンの思いどおりにならなかったからだ。
スターリンのやり方は、いつも通りだった。
ユーゴ共産党とチトーをベルンシュタイン・トロツキー・ブハーリンの流れをくむものだと決めつけ、内通者を育成して、路線転換を画策した。
ついにはチトーをアメリカ帝国主義の手先と規定し、政権転覆を図ったが、ユーゴ共産党は自主路線を守った。
ディミトロフも、スターリンとチトーの間で日和を見て、動揺するのみだったが、ついにスターリンから激しい批判を浴びた。
戦後世界の焦点となったのは、東アジアだった。
東アジアにおけるスターリンの戦略は、河北以南を蒋介石・国民党政権の支配に任せる一方、満州をソ連の勢力圏に組み込むというものだった。
大戦後のヨーロッパの勢力圏をチャーチルとの談合で決めたスターリンは、これなら、蒋介石との取引が可能と考えたのだろう。
中国共産党が国民党を駆逐し、中華人民共和国が成立するという事態は、スターリンには想定外だった。
労働者と農民がソビエト権力を打ち立てるというソ連型の革命しか知らないスターリンに、農村に拠点を築きつつ民族主義的な路線を確立し、抗日戦争と国共内戦を勝利に導いた中国共産党の路線は、理解できなかった。
一方、毛沢東らは、人民中国の出発にあたって、ソ連による物質的・理論的援助を求めていた。
毛沢東ら中国共産党もまた、自分たちの革命路線に関する理論を確立できていなかった。
スターリンは、東アジアにおいて冷戦の「東部戦線」を構築するため、南侵戦争にはやる金日成を焚き付けて朝鮮戦争を起こさせた。
見込みに反してアメリカが介入し、朝鮮労働党が駆逐される危機に、スターリンは毛沢東に介入を求めた。
本書によれば、中国共産党の大勢は介入に否定的だったが、毛沢東はスターリンに貸しを作るために、人民解放軍を投入したという。
この時期に金日成が無謀かつ無理な南侵を企てず、中国共産党が自主路線をとって、民族主義的な革命の理論を確立していたら、東アジアの戦後史はずいぶん異なったものになっただろう。
結果的に、北緯38度線で朝鮮半島は分断され、民族のなかに無惨な対立と憎悪が残ることになり、国民党政権は台湾に逃れてアメリカのキーストーンとなった。
日本共産党もやはり、自主路線を構築するだけの理論を持たなかった。
日本における武力革命綱領を書いたのもスターリンだった。
中国革命を下敷きにした方針を書けば、同じアジアの日本でも通用すると、スターリンは思ったのかもしれない。
スターリンは、イエスマン以外はすべて排除・処刑して権力を維持し、組織を作り上げてきた。
当然のことながら側近たちは、如何にすればスターリンに叱られないような方針を書くことができるかにのみ注力するようになり、それらの路線が世界情勢や現実から見て適切かどうかは、二の次となる。
ソ連の権力構造は、スターリン死後も変わることがなかった。
著者はスターリン時代からブレジネフ時代に至るまで、スースロフという人物がソ連共産党指導部の最高幹部に居続けていることに、何らかの意味を見出しておられるようであるが、それは推測の域を出ないからか、具体的には語られていない。