不破哲三『スターリン秘史5』

 第二次世界大戦後半における、ユーゴ解放・コミンテルン解散・対日戦争・ソ連によるブルガリア支配などについて、叙述している。
 好著。

 チトーは、コミュニストとして、コミンテルンに属する共産党の指導者としての自覚を持って行動していたが、彼の目は常にユーゴのリアルな現実に注がれていた。
 各国の共産党をモスクワから遠隔操作するなど、不可能であり、まして司令塔がスターリンで、コミンテルン幹部はディミトロフを含め、スターリンの顔色を見てものを言い動く人物しかいなかったのだから、ユーゴ解放の戦略はチトーが立てるしかなかった。

 ユーゴスラビア連邦はそもそも多民族国家として成立しており、民族国家ではなかった。
 チトーは、南スラブ諸民族の連邦国家としてのユーゴを率いてきたのだが、彼の死後、社会主義体制の崩壊とともにユーゴ国家も崩壊し、悲惨な民族抗争を経験した。
 社会主義以前のユーゴ国家を作ったのはチトーではないとしても、ユーゴスラビア連邦はそもそも成立し得ない国家だったのか、それとも多民族国家として存立しうる国家だったのか、今少し学習する必要を感じる。

 コミンテルン解散の理由について、スターリンが述べていることは、それ自体としては不当なこととは思わない。
 しかし著者は、スターリンがコミンテルンを通じて各国共産党を支配するのではなく、ソ連共産党が各国共産党を直接支配することを狙ったものだと分析されている。
 史実から見ると、著者の見通しは間違いでないと思う。

 ソ連軍が進撃してドイツ軍がジリジリと後退し、各国でパルチザン闘争が激化するなかで、それぞれの国における闘い方はワンパターンではありえず、またヨーロッパ全体の情勢と不可分でもあった。
 そんな中で、コミンテルン指導部の理論的崩壊は、おそらく深刻だった。
 その点について著者は、「幹部たちの知的水準の衰弱」と指摘されている。
 その評価はじつに鋭く、各国共産党に対するコミンテルンの指導は硬直的で的はずれな点が多く、スターリンの分析・立案の方がまだマシなくらいだった。

 著者はこの「衰弱」が起きた原因を、スターリン専決体制に求めておられる。
 それもその通りで、このことは、自分の頭で考えさせない組織は、いずれ知的に崩壊することを示唆している。

 対日参戦とシベリア抑留をめぐるスターリンの言動は、日本の歴史にとって非常に重要である。
 一つは、1944年12月14日の、アメリカ駐ソ大使ハリマンとの会談における発言で、対日参戦の条件に関するものである。
 スターリンはここで戦後、千島列島のソ連への引き渡し・旅順・大連の租借権のソ連への引き渡し・南満州鉄道のソ連への引き渡しなどに言及した。
 これがヤルタ秘密協定の伏線なのだが、彼がここで語っているのは、日露戦争のリベンジにほかならない。

 大西洋憲章違反が明白なこれらの要求を、全部ではないにせよルーズベルトが認めたのは、対日戦争の早期集結によりアメリカ軍の損害を抑えるには、早期におけるソ連の対日参戦が必要だったからだ。
 原爆の開発に成功してからアメリカの立場は、一転することになるが、スターリンの立場はもちろん、変わらなかった。

 もう一つ、シベリア抑留とは、帝国陸軍とスターリンによる共犯だったということである。
 大本営の朝枝繁春は、731部隊の全記録の消滅を参謀総長に代わって石井四郎に命令した人物だが、敗戦間際のソ連との交渉にも関わっていた。
   * 朝枝は戦後も、志位正二中佐とともに、ソ連の諜報機関のエージェントだった。

 敗戦直後に朝枝が大本営に報告した文書には、満州在留邦人と武装解除後の兵士はソ連支配のもとで満州・朝鮮に土着させるとあり、これはソ連にも提案されている。
 ポツダム宣言において、兵士は武装解除後、各自の家庭に復帰させるとあるから、シベリア抑留は宣言違反であり、スターリンはもちろんそのことを承知していたはずだが、日本側から捕虜の使用してよいと提案されるに至って、一転して抑留(強制労働に使役する)方針を決めたのである。

 なお、条約違反の捕虜の強制労働は、ドイツ兵に対しても同様に実施された。

(ISBN978-4-406-05940-4 C0030 \2200E 2015,9 新日本出版社 2023,10,15 読了)

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