幕末から明治期にかけての、主として埼玉県域の民衆運動に関する論文集。
特に興味を惹かれたのは、幕末における民衆運動の論理の展開に関する部分と、秩父事件に関する部分だった。
幕末の民衆運動の論理については、つい最近読んだ『幕末社会』など、近年の研究により、詳細に明らかにされている。
本書は、民衆側の論理と公儀側の論理が相互に拮抗する中で先鋭化し、新政反対一揆の論理へと転形される道筋を探っている。
新政反対一揆は世直し騒動の延長線にあり、秩父事件との中間に位置づけられる。
このあたりの論理をていねいに学び直してみたい。
秩父事件について本書は、参加した民衆のいで立ち・武器・指物などを詳細に分析している。
このような研究は、今までになかったのではなかろうか。
これらの分析からいえるのは、秩父事件が戦いの形として、世直し一揆の延長線上にあるということだろう。
とはいえ、だからといって秩父事件が世直し一揆と本質的に同じだと結論づけるのは早計である。
なぜなら世直し一揆とは異なり、秩父事件は、最初から明治国家との対決を想定していたのであり、指導者の一部は権力構想のラフイメージさえ、持っていたから。
著者は、秩父困民党を自由党と峻別される存在とし、秩父郡中固有の問題解決をめざした事件と位置づけられている。
しかし、信州北相木や西上州の人々が秩父事件に参加したのは、自由党員としてのつながりがあり、この戦いが自由党の戦いだと受け止められたからであるし、国家権力が空白となり、コミューン状態となった秩父郡から平野部へ侵攻しようとした。
自由党の一部に、政府打倒をめざす一斉蜂起論も存在した。
著者がどのような根拠をもって秩父事件を秩父郡中固有の問題解決をめざした事件といわれるのか、今ひとつ理解し難い。。
困民党の行動綱領のうち、学校の休校要求と雑収税減免は秩父郡内で解決できるものではなく、埼玉県や内務省に要求しなければ実現しない。
県や政府に要求を認めさせるには実力を行使する以外になく、それはつまり、革命を実現することだった。
このように考えるのが、最も自然なのではなかろうか。