鈴木将典『戦国大名武田氏の戦争と内政』

 武田氏は信虎・信玄の二代で甲信一帯を制覇した。
 二代にわたって行われた戦争を追いつつ、どのような政治を行ってきたのかについて、時系列でまとめている。

 戦国大名はおそらく大同小異なのだろうが、関東においては、武田と上杉の暴虐は際立っている。

 『新版 雑兵たちの戦場』にもっとも詳細に書かれているが、戦国大名の対外戦においては、殺戮・凌辱・放火・略奪・拉致はごく一般的に行われた。
 上杉謙信は基本的に、秋になる前に脊梁山脈を越え、上州に着陣して、冬の間に戦争と略奪に明け暮れた。
 略奪は家臣団・雑兵にとって、従軍の基本的動機だったから、「悪」とは考えられていなかった。

 信玄も同様である。
 志賀城攻めの際のエピソードが有名だが、信玄は、北条氏の支配下にあった秩父地方へも、侵攻している。

 1568(永禄11)年に今川氏との戦端を開いた信玄は、姻戚関係にあった北条氏康との関係を悪化させ、1569(永禄12)年には西上州から秩父へ攻め込んだ。
 詳細な記録はもちろんないのだが、佐久から十石峠を越えて神流川沿いに入り、いずれかの峠を越えて秩父に乱入したものだろう。

 志賀坂峠から来た一隊は三山郷で北条軍と戦った。
 三山には軍平の地名があり、高谷砦や戸蓋城もある。これらは、このときの戦いの痕跡かもしれない。

 土坂峠あたりから侵入した一隊は、おそらく日尾城で諏訪部遠江守と戦い、さらに女部田砦で見張りに発見されたが竜ヶ谷城を撃破して、大宮に入った。
 このとき武田軍は上野・武蔵で、「人民断絶」と言われるほどの大殺戮を行っており、大宮を放火して(秩父焼き)、人民を拉致している。
 武田軍は、信虎時代の1524年3月にも秩父に侵攻しているが、こちらについての記録はなさそうである。

 信玄の暴虐について秩父ではあまり知られていない一方で、領民には比較的良政を敷いた北条氏への評価は、さほど高くない。
 これはやや不当な評価といえるのではないか。

(ISBN978-4-06-138590-0 C0221 \860E 2016,7 星海社 2023,2,16 読了)

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