北条氏照に関連する古城址がどのような機能を果たしていたのかについて、考古学的な知見から立論している。
戦国大名と領民の関係にについてのイメージが、この本を読むことによって、はっきりしてくる。
例えば、南佐久に海ノ口城という山城がある。
ここは土豪の平賀源心の城だったのだが、本曲輪と思しき削平地はすこぶる狭く、ここを守るとしても10数人くらいしか入れない。
その他の曲輪を含めても、立てこもれるとすれば数十人程度であろう。
ところが史書は、ここに二千人が籠城し、武田信虎軍八千人が攻めたと記す。
これは史書が盛ったのだと考えるしかなかった。
しかし、考えてみれば武田軍は、この時期の戦国武将らしく、略奪・拉致・殺戮・放火を常套手段とする、凶暴な軍団だった。
地域の民衆は、近隣の山や城に避難するしかなかったのである。
だから、籠城した「二千人」には、避難民も含まれると見なければならない。
戦国時代の山城が避難場所だったということを証明する史料は多くないが、『土一揆と城の戦国を行く』などのに指摘がある。
そのように考えることによって、山城の果たした役割がはっきりしてくるし、地域を支配した土豪(一部は手作り地主でもあった)と地下民衆とのある種の共同体が存在したと考えることもできる。
古城址を歩くことによって、戦国時代像が魅力的になる。