奥村正二『火縄銃から黒船まで』

 『小判・生糸・和鉄』の正編。
 江戸時代の銃砲・造船・鉱山技術について概説している。

 生産力とは、つまりは技術のことと言ってよかろう。

 ひとは、日々の暮らしを改善するために、なにかの知見や工夫を加えながら生きている。
 農作業などは、その積み重ねである。
 新技術の模索はまた、知的な冒険でもある。

 江戸幕府は、体制として技術革新を禁じた権力だった。
 鎖国もまた、進歩の禁止を徹底させる上で役に立った。
 日本の歴史を通じて、このような時代は江戸時代だけだった。

 ポルトガル人によってもたらされた火縄銃が国産されるまではあっという間で、戦国時代の合戦は、槍を用いた集団戦から銃砲を用いた火力戦へと変貌した。
 集団戦が無効化されたわけではなかったが、戦国大名たちは多かれ少なかれ、銃砲を用いて戦った。
 それを可能にしたのは、堺や国友の鍛冶集団だった。
 驚異的な速さで普及した鉄砲製作技術は、江戸時代になると、戦争が起きなくなったことも手伝って、進歩を止めた。

 進歩を禁じた体制が、開国以後の政治的動乱に処していくのは難しかった。
 秀吉時代以来の惣無事体制を維持する上で、武器の改良に関する情報交換など、できようはずはなかった。

 領主(大名)の領主権を、君主(将軍)が個別に安堵するのが封建制だった。
 領主同士が個人的に親交を深めたり、縁戚関係を築くことも法度だったが、武器の改良に関する情報交換を行うなど、断じてありえなかった。
 だから、もし外国とことを構えるようなことになったとき、諸大名が連合し「日本軍」として戦うことも不可能だった。

 だから、銃砲の改良が再開されたのは明治以降だった。
 その一つの画期である村田銃が、秩父困民党に対し威力を発揮したのは、皮肉だった。

(ISBN4-00-416063-4 C0221 P494E 1970,5 岩波新書 2022,12,23 読了)

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