大正末から敗戦ごろにかけての、石和周辺の村人の毎日を淡々と描いた小説。『深沢七郎傑作小説集』の第二巻。
『笛吹川』では、武田支配時代の一家族の毎日が、やはり淡々と描かれた。
ここで人びとは、お屋形様のいくさに翻弄され、川を流れる落ち葉のように浮沈しながら人生を終えていった。
ここでは生きる意味など何もなく、生まれて食べていくさに翻弄されて死ぬのが、人間だと言わんばかりの描かれ方だった。
深沢七郎の描く世界は、生きる意味などなにもないという酷薄な現実だった。
『甲州子守唄』も同様である。
震災や生活苦や空襲など、酷薄な現実は、武田時代とほとんど変わらなかった。
少し違うのは、主人公の一人である徳次郎がアメリカへ出稼ぎに出て、小金を貯めて帰宅したことくらいだが、彼のその小金も、戦後のインフレのため泡と消える。
ここに登場する人びとは、社会を批判的に見る目など、誰ひとりとして持っていない。
現実に直面すると、それが損か得かとか、体面を損なわずに対処するにはどうすればいいかなどと、即物的にしかものを考えない。
酷薄な現実の中で、なんの見通しを持つこともなく、主体性もなく、日々を送るのが民衆だと深沢は描く。
そのようでない民衆ももちろん存在した。
しかし多くの人々は、無意味と思える人生を送っていたのだよ、と深沢はいうのである。