金子文子が朴烈と出会うまでの半生を綴った自伝。
明治・大正期を庶民女性がどのような人生を送ったかがほの見える。
さらに、金子文子という体験者・観察者・表現者によって、当時の貧しい人々の暮らし・心根などもうかがえる。
貧困は、当時の日本人の多くに共通していた。
金子文子は横浜で生まれ都会でも暮らした。
労働者になることも困難なもっとも貧しい人々が都会で生きる手段のひとつは、なにかの物売りになるなどの雑業だったらしい。
安価な雑貨その他を伝手を頼って仕入れて路上で売ったりする。
文子の両親は、不安定で長続きしないそうした仕事で食うや食わずの日々を送っていた。
ところが父親が親族を巻き込んだ放蕩に明け暮れ、母親もまた、半ばは生活のために男を転々とする。
文子は満足に学校に通うこともできず、両親の乱れた生活に翻弄されながら育つ。
その中で、母親の何番目かの配偶者の実家である丹波山村小袖での暮らしも出てくる。
小袖は雲取山登山道の途中にある集落で、登山道付近の人家は朽ちて、現住する人がいるようには見えない。
また母親の実家は現在の牧丘町杣口だったらしく、そのあたりの様子も出てくる。
文子にとって頼るものとしては、両親を含め血縁以外にないのだが、それら血縁のほぼ全てが文子に対し、悪意を持って接しているかに見える。
いわば貧困と悪意の中で彼女は育った。
東京で新聞配達などに従事しながら苦学する中で無政府主義思想と出会ったらしいが、獄中手記である本書に、彼女の思想的展開についてはほとんど書かれていない。
文子が無政府主義者として活動したのは1年ほどの期間に過ぎないから、思想的な成熟があったとは思えない。
彼女の生きてきた道を階級的な見方で振り返れば、特権階級や権力に対する反感が生じたのも無理はない。
彼女の叛意は、国家や社会の理論的分析ではなく、何らかの直接行動にに向かうしかなかった。
彼女に思想と言えるほどの体系的なバックボーンがあったかどうかはわからない。
無政府主義者たちに多く言えることだが、体系的な分析に向かう労を回避して、直接行動という安易さに向かったと批判されざるを得ない部分があったのではないかと感じる。