この時代は近世に接続する時代だが、史料は非常に少なく、生活の具体層はほとんどわからない。
在地の武士にとって土地保有は生活上の最低条件だったはずだが、土地保有をめぐって他者との軋轢は不可避だった。
本書によれば、鎌倉時代末から裁判が無意味化し、土地をめぐる争いは、自力救済に依存せざるを得なくなったという。
自己救済とはいえ、自力のみによって戦うのは現実的でないから、強者の傘下に入って戦闘に参加し保有する土地を保障してもらうことになる。
強いか弱いかは相対的な評価であり、力関係の変化によって主従関係は容易に崩壊した。
鎌倉末から室町時代までの武蔵はだいたい、こんな感じだったのだろう。
長瀞町の仲山城は南北朝期の山城だから、その時代には秩父地方でも、在地の武士が割拠しつつあったのだろう。
惣村が成立するのはこのころとされており、教科書にもそのように書かれているが、秩父あたりの在地で惣村なるものが成立していた史料はないし、そのような気配もない。
寄り合いによって惣掟が作られ、武士や他の村と交渉したり戦闘に及んだりしていたのは、西日本が中心であって、秩父地方のような関東山間部には当てはまらないのではなかろうか。
このあたりでは、全体としては、関東管領の支配下に入りつつ、鎌倉時代と同じように、館を構える中小武士が各種隷属民を従えて小地域で群立していたのだろう。
室町幕府は確立したが、その権力基盤は脆弱で、当初から一貫して不安定だった。
秩父地方が戦乱に巻き込まれたのは、1455年に始まった享徳の乱以降である。
教科書には出てこないが、この時代の秩父のローカルヒーローは、長尾景春だった。
長尾景春は、とても面白い男である。
山内上杉家家臣の一族だから、さほどの由緒があるわけでもない。
主君たる上杉氏に背いたのだが、その理由は自分の処遇に不満だったからだから、現代でもよくある話で、あまりぱっとしない。
初戦(五十子の戦い)では勝利したが、その後は敗北に次ぐ敗北で、秩父から関東一円を逃げ回った。
しかし敗死・自決するわけでもなく、つてを頼りながら流転し、ついに再起もかなわず客死した。
秩父における長尾景春は、小競り合いのある中でも全体として平穏だった山間地に突如として訪れた台風のような存在だった。
そして、景治が去ったのち、秩父地方を制圧したのは、長尾景春をスケールアップしたような北条氏邦という人物だった。
教科書には、畿内あたりの状況として惣村を基盤として土一揆・徳政一揆が頻発したと書かれているが、武蔵においてそのような状況は訪れていない。