鎌倉時代から室町時代にかけての地域社会については、史料が少なく、はっきりしたイメージを作りにくい。
しかし、登場人物にまつわるエピソードだけが歴史なのではない。
歴史は、地域社会の変容の歴史が基本だと思っている。
各地に点在する史料により一定の社会像を定立できれば、数少ない史料の持つ意味がはっきりしてこよう。
中世の地域社会という形で一般化するのは難しいだろう。
本書は、中世の東国社会の実相についてかなり具体的に描いてくれているので、中世における武蔵国山間部の様子について、ある程度の想像が可能になる。
まずは頼朝政権の成立。
平安末期に、各地の武士は、舘を拠点として周辺を支配する地域権力者だった。
秩父地方を支配していたのは秩父平氏(畠山氏)であり、それに従属していたのが武蔵七党とも称される地域武士団だった。
治承の騒乱当時、畠山氏の麾下にあって参戦した中には相当数、秩父出身者が存在したことが想像される。
畠山氏滅亡の後は、中村氏が秩父武士の中心的存在となり、各々が幕府直属の御家人となり、承久の乱にも参戦した。
しかし、中村氏は畠山氏ほどの出自を持つわけでなく、相対的に有力な在地武士に過ぎなかったから、在地武士団中にさほどのヘゲモニーを確立することはできず、南北朝期にはフェイドアウトしたと思われる。
新田義貞の鎌倉攻めに秩父武士が加わったという記録はなさそうなので、このころの秩父の状況は不明である。
南北朝以降は、再び地域権力者が蟠踞する状態になったのかと思われる。
室町幕府確立後の関東は、鎌倉公方が支配することになったが、実際のところは、幕府対鎌倉公方・鎌倉公方対関東管領の争乱がうち続き、どの権力も安定的な支配を確立することはできなかった。
土地をめぐる各種の揉めごとは他の時代同様、頻発していたはずだが、絶対的で安定的な法的環境は存在しなかったから、在地武士は、地域支配を維持するため、相対的に強力な権力者と関係を結ぶことになった。
応仁の乱により室町幕府が実質的に崩壊する以前に、関東では、永享の乱や享徳の乱などにより幕府権力は実質的に存在せず、秩父はとりあえず上杉氏の支配下に入った。
こんなところだろう。