稲田雅洋『自由民権運動の系譜』

 自由民権運動とは言論によってよりよい政体を実現しようとする政治運動だったという理論のもとで、幕末から民権期にかけてどのような人々が立憲政治を模索したかについて追究し、そこでめざされたものがその後どのように継承されていったかまで追っており、言論運動としての民権運動の流れが、わかりやすく説かれている。

 要点をたどれば、次のようになる。

 民権思想の源流は江戸幕府により欧米に派遣された使節たちで、維新初期に西周や加藤弘之ら体制派知識人によって憲法論が模索され始めた。
 板垣退助らによる民撰議院設立建白は、それ自体としては歴史的に価値あるものではなかったが、新聞に取り上げられたことにょって脚光を浴びることになった。

 政府と民権派に思想的・政治理論的に大きな相違はなく、民権派は運動の力により、早期の立憲政治を実現しようとしていたにすぎない。
 自由民権運動が成立し、民権家と呼ばれる活動家が生まれて、運動は民権家によって担われることになった。

 民権家たちは、主として新聞への論述活動と演説活動によって、論陣を張った。
 彼らの言論戦は若干の犠牲を伴いつつも、憲法制定・国会開設という大きな成果をもたらした。

 国会開設までの流れは、おおむね以上である。

 自由民権運動を活動家(民権家)による言論運動と限定すれば、民権運動は敗北とは言えず、赫々たる成果を歴史に刻むことができたと総括できる。
 民権家たちは敗北したのではなく、勝利したのだと自己認識できる。
 歴史は、勝利か敗北かという形で単純に評価できるものでないから、著者のような考え方はじつに新鮮で、自由民権運動に対する評価がより前向きになると思われる。

 一方で著者は、言論運動でない活動をまったく評価されず、本書において激化事件はほとんど取り上げられていない。
 憲法制定・国会開設を求めるムーブメントを、活動家(民権家)による言論運動に限って見ることによって、理解しやすくなるのは事実だが、それだと活動家(民権家)を生み出した歴史的土壌に目が届かないことになる。

 明治維新後、日本の民衆も、個人の自由や自治の理念などを自らのものとしていった。
 民衆のなかに、職業的民権家になる人もいたが、一貫して在地にあってなりわいに励みつつ、民権運動に関わった膨大な人々が存在した。
 民権家は、そのような膨大な人々の中から輩出された。

 秩父事件の指導者田代栄助は、陸軍の測量士に対して蜂起の最終目的を「純然たる立憲政体の樹立」だと話している。
 著者のように自由民権運動を限定的に規定することによって、大地に根を張って生活しつつ自由や自治を求めて学習し、署名を集め、資金を提供した人々の営為に目が届かなくなってしまうのではないか。

 秩父事件は、自由党中央からも距離をおいたところで起きたが、参加者すべてではないにせよ、自由党の組織的な蜂起という意識が存在した。
 武装蜂起による速やかな立憲政体の樹立は敗北に終わったが、自由民権運動が敗北したわけではない。

 民権期に民衆の政治的自覚がどれだけ深まったかを検証するのも、自由民権運動史研究の重要課題であるはずだ。

(ISBN978-4-642-05681-6 C0320 \1700E 2009,10 吉川弘文館 2021,3,3 読了)