新聞サイトの読書欄で、『暗夜行路』はやはりすごいと述べる記事を読んだ(たぶんこの記事)。
『暗夜行路』を読んだのは中学生ころだったから、読後感など覚えていないが、内容など全く理解できなかったことは間違いない。
今なお読むべき名作だという評価が批評家からなされているのを見て、読み直す気になり、Kindle本を買って読んでみた。
批評家は「美しい文章に出会う喜び」とまで絶賛している。
志賀直哉の文章は、過不足なく端的で、悪い文章ではないと思うが、そこまで美しい文章とは思えなかった。
それ以前に、最初の一行から最後の一行までに横溢する、有閑階級のちっぽけな心情の吐露が、不快に感じた。
中身じゃないよ、文章の美しさだよ、と言われるかもしれないが、たとえよい文章だとしても、内容が陳腐であればやはり、陳腐な作品というしかない。
主人公である時任謙作の悩みは、深く厳しく救われようのない人生の悩みとはとても言えず、時間を持て余す悩みとでもいうべき次元に思える。
暇人たる主人公の悩みは、共感してともに考えてやりたくなるレベルではとてもなく、独りよがりとしか、思えない。
だから、小説としては、じつにつまらない作品だと思うほかなかった。
この作品のことを太宰治が『如是我聞』というエッセイで罵倒していたことを思い出した。
『如是我聞』を読んだのは、高校3年生のときである。
太宰は最初から喧嘩腰で、かつ志賀の人格も作品も完全に否定する。
その根拠を太宰は必ずしも理路整然と説明できていないが、要は、他者に対するリスペクトの念が志賀に全く欠如していると言おうとしているように見える。
太宰は、志賀の根底にあるちっぽけな特権意識がみっともなくて仕方がないように見える。
『暗夜行路』を貫く不快な自己中心性をみれば、太宰の指摘はまったく当たっていると言わざるを得ない。
『暗夜行路』を今なお読む価値があるという論には首肯しがたい。