東京裁判において、主として天皇不訴追がどのようにして決まったのかを追究している。
裁判に関係者した存命者からの聞き取りを交えて調べている。
天皇不訴追は、アメリカ軍・政府のかなり当初からの方針だった。
その主たる理由は、天皇の免罪によって、占領を容易ならしめるためだった。
しかしアメリカの同盟国オーストラリアは、天皇断罪にもっとも積極的だったのであり、開戦に際してはもちろん、裕仁天皇が戦争指導の最前線にいたことを想起すれば、オーストラリアの主張は筋が通っていた。
ところが、意外なことに、中国(国民党政権)やソ連(スターリン)も天皇不訴追に傾いていた。
中国は当初、裕仁の訴追する方針だったが、近づきつつあった冷戦において日本が反共陣営の有力な一員であるために、天皇制の維持は必要だとして、方針を転換した。
ソ連も同様に当初は、裕仁は戦犯だと考えていた。
しかしスターリンは、天皇制を維持することによって、日本をアメリカの属国にさせず、中立国化できると考えていた。
それが事実なら、スターリンはなんとおめでたい人物だったのだろう。
国内勢力では、反天皇制勢力とみなされていた日本共産党が、中国から帰宅した野坂参三の主張によって、天皇制容認へと転じた。
野坂の考え方は、国民に広く支持されている天皇を断罪するのでなく、退位させることによって戦争に関するけじめをつけさせることにより、事実上の象徴天皇制を容認するというものだった。
32年テーゼ以来、日本共産党は、天皇制を支配体制の最も主要な柱と位置づけ、その打倒をめざしてきた。
野坂の主張はその方針を大転換するものだったから、徳田・志賀ら出獄メンバーと激しい議論が行われたことが想像できる。
理論的には、天皇制打倒は正しかったかもしれないが、現実には困難だった。
とすれば、現時点での日本共産党がどう総括しているかはともかく、野坂の主張は現実的だったといえるだろう。
裕仁にはやはり、責任を取らせるべきだった。
側近だった木戸幸一も、天皇は退位すべきと考えていた。
これをもっとオープンに議論されれば、戦争責任に一つのけじめをつけることができたのではないかと思う。
裕仁は結局、なんの責任も取らないまま、ズルズルと天皇の地位にあり続けた。
この国にとって、それは最も下等な選択だった。