瀬島龍三を始めとする元大本営参謀数名の戦中・戦後をたどった書。
対外戦争において、作戦の基本的な方向は大本営の構成メンバーが決めるが、個々の作戦は参謀たちが起案した。
大本営の参謀は、士官学校・陸軍大学校(陸軍の場合)をトップクラスで卒業した、軍の最高エリートたちである。
瀬島はおそらく、問題処理能力の非常に高い人物だったのだろう。
若くして、ガダルカナル島撤退など、陸軍にとってきわてめ重要な作戦計画を多く担当している。
敗戦時に関東軍参謀だったためソ連軍の捕虜となり、長期に渡って抑留された。
このとき、ソ連と瀬島がどのような存在だったのかについては、憶測を含め諸説ある。
参謀たちの多くは多くの場合、前線に出ることはない。
従って東京裁判でも、A級レベルの決定権はもっておらず、BC級のように残虐行為に直接手を下すこともなかったために、追及から逃れやすかったのかもしれない。
瀬島の場合は、11年の長期抑留だから、他の参謀たちに比べて厳しい戦後だったと言える。
元参謀のうち、服部卓四郎や朝枝繁春らはGHQの諜報機関に取り入って、占領軍の手先として復活し、井本熊男らは警察予備隊の幹部に返り咲いた。
辻政信は、戦犯追及されるべき立場だったが、国内外に潜伏して逃げ回った。
瀬島が復活するのは、伊藤忠商事に入社して賠償ビジネスで力を発揮してからだった。
大日本帝国による侵略戦争で被害を受けた国々に対する賠償は、多く、現物によった。
現物による賠償とは、「日本」政府が国内企業に発注してアジア諸国のインフラを整備するというもので、費用は政府から出るのだが、最終的には「日本」の企業がそれを回収するというもので、もちろん、相手国政府要人や相手国と「日本」側との間に入るブローカーにも巨額の中抜き金が落ちる仕組みになっていた。
「日本」の商社は戦後も、戦争関連ビジネスに利益を求めていたのであり、瀬島はその中心にいたのである。
晩年に、第二臨調の委員を務め、中曽根首相のブレーンだったことは、記憶にある。
執筆チームが何度か指摘しているのだが、瀬島は、自らの体験を正確に語らないばかりか、改ざんすることもある。
そのあたりが、瀬島スパイ説などを生む土壌となっているのだろう。
処理能力には秀でていたかもしれないが、この人物の一生は結局、他人が血を流すことによって立身出世するというものでしかなかったといえる。