新井健二郎『九十五歳』

 旧吉田町の新井健二郎さんの自伝。
 大正生まれの氏がこの一世紀をどのように生きてこられたかを、控えめに語っておられる。

  新井さんの世代は、人生の出発点が戦争だった。
 農林学校卒業と同時に、繰り上げで徴兵検査を受け、その年のうちに入営、山東半島の第59師団に送られ、次いで満州の工兵幹部候補生となって、敗戦となる。
 関東軍の主力は逃げたが、氏の部隊はソ連軍に武装解除されてそのままシベリアへ連行される。

 シベリア抑留は、近代史の大きな闇である。
 敗戦国の兵士を部隊ごと拉致して自国へ連行し、強制労働を行わせてよい根拠はどこにもない。
 「日本」軍捕虜の強制連行を命令したのはスターリンだが、その裏には関東軍総司令官による了解が存在したのであり、「日本」政府が関わっていた可能性もないわけではなく、また「日本」政府が、国際法違反であるシベリア抑留に抗議した事実もない。
 従って、この巨大な人権侵害の責任が、軍と政府にあるのは当然である。

 新井さんは高校卒業後、職に就くいとまもなく、歴史の荒波に巻き込まれ、九死に一生を得たわけだが、一割が死亡する重労働に耐えて、出征以来5年目に帰国した。
 帰国されてから、新井さんの人生が本格的に展開する。

 秩父の産業・経済構造に関心を持つようになって久しいのだが、新井さんは、まずは農業を生業に選ばれ、具体的には酪農を始められた。
 当時の秩父地域といえば、養蚕が一般的だったし、養蚕はまだ傾斜産業でなかったはずだが、新井さんが養蚕を検討されたような記述はまったくない。

 耕地の少ない山間地では、広い田畑で米や麦や生鮮野菜の生産による(専業)農業は難しく、人々は、ありとあらゆる仕事をこなしながら生きてきた。
 仕事をこなすというのは、言われたことをやるというだけのことではない。少なくとも秩父では、技術や知識を極めたプロでなければ、仕事ができるとはみなされない。
 しかも今の人間と違って、以前の人々は、何でもできた。
 新井さんもすでに、抑留時代に左官とペチカ修理をこなされていた。

 新井さんは復員後、酪農の道を選択される。
 農林学校で家畜に関する勉強もされたかもしれないが、事実上は一からの出発である。
 この時代の人々と同じように、新井さんも、自分の体力と先達からの助力と工夫とで、人生を切り開いていった。

 例えば新井さんは、知人の助力を得て、有り合わせの材料を使った鉄索を完成させておられる。
 かつての秩父には、山の傾斜地を利用した暮らしの知恵と技術があったのだが、そのような力は、人々から急激に退化している。

 酪農経営自体は順調だったようだが、牛の尿処理の問題にぶつかり、新井さんは事業をたたまれ、図書等の販売代理店に転進される。
 ご本人も書かれているが、秩父における酪農経営そのものが困難だったし、全国的に見ても、小規模農業・酪農には厳しい時代が訪れる。

 私が新井さんのお名前に接したのは、大学に入学してしばらくたったころ、小池喜孝さんが書かれた『秩父颪』(現代史出版会)においてだったと思う。
 秩父事件から90年がたったころで、秩父事件研究はまだ今ほど進捗していなかったが、近代史を掘り起こすことによって地域の人々の歴史意識をダイナミックに変革していく小池さんの活動は、強烈なインパクトををもっていた。
 その本の中で新井さんは、秩父事件調査に協力する日本共産党の町議会議員として登場していた。

 秩父事件百周年は、秩父事件のその後の歴史にとって、「暴動」から「事件」へと評価を変えていく、大きな転機となった。
 この転機を迎える背景には、埼玉歴教協・秩父歴教協の先生たちによる掘り起こしや教育実践、新井さんや中沢市朗さんによる精力的な研究・顕彰運動が存在した。
 本書には、百周年事業が盛大に実施された裏に、当事吉田町教育長だった小林弌郎さんの尽力があったことが書かれている。
 これはとても重要な事実で、吉田町における暴動史観がどのように転回したのかをめぐる貴重な証言である。

 秩父事件研究顕彰協議会が設立されてからは、会の運営に当たる事務局メンバーとして活動される一方で、各地から舞い込む秩父事件史跡見学の案内に奔走された。
 今、自分もときおりガイドさせていただくこともあるが、吉田町で根を張って生きてこられた新井さんの解説には、とてもではないが、近づくことはできないだろう。

 新井さんは、妥協なく、誠実かつ、徹底的に筋を通すエネルギッシュな人生を送られた。
 そこに貫かれている柱は、日本共産党員としての自覚だった。
 秩父の斜面がちの大地にしっかり根を張って、地域社会を変革するのが、秩父の共産党の姿なのだろう。

 秩父困民党(その中核は自由党員である)にとって自由党は幻想に過ぎなかったと述べた研究者がいた(稲田雅洋氏)。
 秩父の自由党員たちは、周りの人々に対し、「自由」や「権利」の理念を観念的・妄想的に語ったのではない。
 秩父自由党は、秩父の民衆が直面していた、負債問題を始めとする深刻な生活問題を、民衆の立場に立って解決しようとするなかで、専制政府転覆・自由政府樹立という目標を、集団的な討議の中で作り上げていったのである。

 現代の日本共産党は、国会等で国政上の大きな問題に取り組んむ一方、地域の中では、地域の課題に日々取り組んでいるはずである。
 地域で地域の課題に取り組みつつ、国家をどうするかという問題をも見据えるというのは、近代政党として、ごく当然だろう。
 小さな問題から大きな問題まで、住民の立場に立って地域の課題に取り組む秩父の共産党の姿は、秩父自由党と重なって見える。

(2020,5 埼玉新聞社 2020,5,28 読了)