高橋竹山が語った来し方をライターがまとめた書。
この人の人生そのものが興味深いから面白い本であるのだが、ところどころに見逃せない記述が散在する。
著者(竹山氏)は若いころ、門付けによって暮らしを立てていた。
門付けというなりわいは、今や完全に消滅した。
托鉢する旅の僧を見かける機会もほとんどなくなった。
この本を見ると、大正から昭和のはじめころには、門付けによって暮らす人々がたくさん存在したらしい。
ここに出てくるのは津軽の状況だが、都会を別にすれば、「日本」の農山漁村は、同じようなものだっただろう。
『大菩薩峠』に出てくる各種の芸能民も、やはりなんらかの芸を見せて(あるいは聞かせて)、銭を投げてもらって生活していた。
本書の中には、節季候(セキジロ)・あほだら経・デロレン祭文などが登場する。
これらは江戸時代に発生し、昭和時代まで命脈を保った口承芸で、基本的には門付けや大道で語られた。
口承芸は今、落語・漫才や浪曲などが寄席・定席での興行として残るが、門付け・大道芸は激減し、とくに門付芸はほぼ消滅した。
これらの口承芸で語られるのは、まとまった思想ではなく、言葉遊びの側面も強い。
「家の中で米をくれそうな音と気配がする。そせばうたい出す。せば、唄の好きな人は、ボサマ声いいナ、米コけるからもっとうたってくれ、っていわれれば、こんど口説うたうわけ」
つまらないものであればおひねりをいただくこともできないのだから、目の前でそれを聴く人々のの心情に幾分か訴える部分もあっただろうし、聴衆と掛け合いで語るあほだら経は、トンチが効いて頭がよくないとできないと言っている。
近代史家の中には、理論的に体系化された思想以外は「江戸時代と同じ」的に考える人もいるが、体系化されず理論的でもない言葉の端々に存在する思想をすくい上げ、抽出するのが史家の仕事だと思う。
自分が鹿野政直先生の授業などで教わったのは、そんな歴史学だった。