記紀に記載されている「国譲り」神話に関し、江戸時代以来、神道神学上どのように解釈されてきたかをあとづけている。
記紀に、アマテラスの使者タケミカヅチが国造りを行ったオオクニヌシに国譲りを求め、オオクニヌシが承諾したとあるのが「国譲り」だが、アマテラスの子孫が譲られた国とは、天皇が支配する現実の世の中に過ぎず、現実は本質的な世界から見れば、現象として現れたうわべの世界に過ぎない。
国譲り後、オオクニヌシは、より本質的で根本的な世界の支配者へとステイタスを上げたというのが『日本書紀』の「一書」や『出雲国風土記』の記述で、アマテラスの子孫が全世界の支配者であるとする名分論的な理解とは異なっている。
最初の『古事記』研究者である本居宣長以来、この点について長い論争史があり、本書はそれらを詳しく紹介している。
本書自体は、神学論争史の研究書である。
内容を十分理解できていない素人が感想を述べるのはおこがましいが、この論争の問題点は、列島の正当な支配者であったオオクニヌシ王朝が、アマテラス王朝により征服された(支配権を譲った)という論理的含意を認めるかどうかや、オオクニヌシ王朝がアマテラス王朝より上のステイタス(幽界)に隠遁したという含意を認めるかどうかなどではなかろうか。
古事記の記述はすべて真実であり疑うべきでないとする立場にたてば、オオクニヌシ王朝など存在し得ず、オオクニヌシ自身がアマテラス王朝の一員であり、国造りも国譲りもアマテラス王朝の一員として彼が行ったとこじつけるほかない。
しかし、それならなぜ、神話の中で出雲国が特殊に位置づけられているのか、出雲国造が江戸時代末まで、出雲の民から神のようにみなされていたのか、などが合理的に説明できない。
皇国史観とは、名分論史観である。
名分論でない建国神話があり得るということが、本書を読むことによって理解できる。