太平記をめぐる日本史の認識について、縦横に論じた興味深い本。
論点は数多いので、それぞれについてゆっくり考えたいが、もっともエキサイティングだったのは、水戸学の登場とその変質、及びその延長線上に起きた明治期の国史編纂事業とその挫折をめぐるいきさつだった。
同じ著者の『後醍醐天皇』にも述べられていたことだが、『大日本史』は長く編纂作業が続いていたが、藤田東湖が担当するに至って、いわゆる名分論的な歴史観のもとで叙述作業が行われる。
名分論の源流は朱子学(宋学)で、後醍醐天皇とその周辺を支配していた一君万民論・天皇親政論などは、これを思想的支柱としていた。
徳川光圀が南朝を正当な朝廷とすべきと考えたのは、徳川家を新田氏の末裔とする歴史の偽造を正当化する上でそれが必要だったからだろう。
歴史の実態としては南朝と北朝が並立していたにもかかわらず、南朝を正しい朝廷と結論づけるために名分論が援用された。
名分論を敷衍すると、武家政治も否定されそうなものだが、幕府の学問所では、どのような論理操作が行われたのだろうか。
朝廷の系譜は北朝が継承した。
名分論的に論断すれば、北朝は偽朝である。
北朝を正当化する論理としては、三種の神器が正当な手続きを経て南朝から北朝に委譲されたというしかない。
そこはとりあえず曖昧なまま、歴史の展開としては、北朝が正当な朝廷として既成事実を積み重ねていった。
水戸学は大日本史を通じてオーソリティを確立し、国学とともに幕末の尊王論の源流をなした。
明治以降、近代史学形成期に国史編纂が計画された。
近代史学の基本は実証主義であるが、ここでまた、歴史学は名分論と衝突する。
重野安繹や久米邦武らが名分論によって排除されたのち、国史編纂は頓挫し、史料の編纂という形で継続することになった。
平泉学派と称される名分論史学が戦前には存在し、一定の影響を持った。
昭和初期のいわゆる青年将校は、苦難に陥った農村の現状を天皇親政(という名目でバサラな政治を断行する)によって打破しようとした。
敗戦の詔勅が発せられる前夜にクーデターを企図した将校らの発想も、同様の天皇親政論だった。
これらを見れば、名分論的な考え方に、名分が貫徹しているわけではなく、しょせんご都合主義にすぎなかったことがわかる。