秩父郡小鹿野町の長沢(ちょうざわ)耕地の1950年代から1960年代ころにかけての暮らしを、子どもの目線から回想した本。
耕地はかつて、ひとつの宇宙だった。
そこには、人の暮らしに必要なものは基本的に全て存在したし、不足なものや新しい知識や技術をもたらす誰かがひっきりなしに訪れては去っていった。
ひとは耕地で生まれ、耕地で育てられて、耕地を支える人間になった。
耕地で暮らす人が耕地に関するあらゆることを知り、学び、かかわりを持つのは当然だった。
これは近年、ひどくないがしろにされていることだが、子どもは、遊びながら育つのではなく、遊ぶことによって育つ。
山村で暮らしていく上で身につけなければならない知識や技術は数多い。
各種農作物を作る技術(焼畑を含む)は当然として、山仕事・木工品作り・狩猟・魚とり・鉱業・林産物採取・衣類作り及びその他の職人仕事や商売などがそれにあたる。
高度成長期ごろまでの子どもたちは、耕地という小さな、しかし広い世界で遊びながらそれらを見聞きし、ちょっかいを出したり叱られれたりを繰り返しながら、それら知識や技術にふれたり、場合によっては身につけたりしながらおとなになっていった。
耕地は、各種技術を極めたプロの集まりだったから、子どもたちはおいおい、プロの仕事の妥協のなさや厳しさを知り、仕事とは本来そういうものだということを学び、プロの仕事師を畏敬した。
おとなとは、プロの仕事師のことだった。
おとなになるとは、技術や知識を極め、プロの仕事師になることだった。
一方、耕地の暮らしが、常に平穏無事であるとは限らなかった。
食べるものを作る農の営みは、風水害や獣害によってしばしば妨げられたし、どんな災難や病気がやってくるか、わかったものでなかった。
この列島の民はどこでも、耕地の守り神や守り仏に祈りを捧げ、祭礼を奉じて安穏と豊作を願った。
耕地の人びとの心が一つになるこれらの祭礼に参加することによって、子どもたちは耕地を支える一員としての自覚を育てていった。
本書にはさほど詳しく書かれていないが、耕地には、担当部所の異なる多くの守り神・守り仏がいた。
火伏せには愛宕様、山仕事には山の神様、農の営みには稲荷様、獣害よけにはお狗(狼)様、よろず災難よけに牛頭天王(八坂)様、よろず病気よけには薬師様、牛馬健康・通行安全祈願には馬頭観音様。
等々が、耕地のどこかにひっそりと祀られていて、坊さんや神官を呼ぶまでもなく、皆で拝礼・合掌して感謝を捧げ、ささやかなお日待などが行われた。
これらの祈りの場もまた、子どもたちの遊び場だった。
本書には、耕地で育つ子どもたちの姿が、美しく描かれている。
しかし、著者らが通った小学校は早々に統合され、倉尾中学校もずいぶん以前に廃止された。
小規模校では十分に学べないなどと、役人らはしたり顔で言うが、そんなバカな話はなく、小規模な方が学びやすいのは教育現場の常識で、学校統合の目的は、コストカットのため以外のなにものでもない。
だが、子育てができないところで、ひとは暮らせない。
今、子どもを育てる場は事実上、学校しかないのだが、今の学校は、暮らしの何たるかも、技術の何たるかも、仕事とは何なのかも、教えてくれない。
学校で教えるべき内容は、国が定めた英語理解や数学の解き方などという、地域の暮らしとはなんの関係もない、ほとんど妄想と呼ぶしかない知識(とも呼べない代物だが)ばかりなのだから。
考えてみれば容易にわかることだが、英語や数学でよい点をとれるものがいたとして、そいつに地域で暮らしていくのに必要な、何ができるわけでもないから、大きくなれば耕地から都会へ出て行くしかない。
「限界集落」という侮蔑的な呼び方がある。
そのような状況をつくりだした者たちが、苦しむ地域を侮蔑していることに憤りを覚える。
だが耕地の人びとは、そんな自分と違って、今も、怒りもせず騒ぎも嘆きもせず、相変わらず淡々と耕し、祈り、飲んだり食ったりしている。