村方騒動も多くの場合訴訟という形になる。
その展開をていねいに見ていくと、小前の政治的主体形成を追うことができる。
一方、江戸時代から明治にかけて、山論と呼ばれる訴訟がしばしば起きている。
以前は民衆の主体形成に主たる関心があったので、山論についてあまり真剣に注意を払わなかったが、それは間違いだった。
主体形成はいわば歴史を動かす原動力であるが、その基底には、歴史を支える日々の暮らしが存在した。
日々の暮らしがいかなるものだったかに注意を払わない歴史は、観念の歴史てあり、妄念でしかない。
本書には、白水智氏の研究を紹介する形で、奥山山村の生業の特色について、以下のようにまとめている。
1 焼畑
2 林業(板材等の生産)
3 木工品生産
4 狩猟
5 漁業
6 鉱山業
7 採集
8 織物作り
焼畑以外にもちろん、通常の畑地があっただろうから、農の営みももちろん行われていたはずだ。
山とは、不動産というようなデジタル的概念でなく、ヒトの暮らしの場そのものだった言ってよかろう。
だから、山論をていねいに追っていけば、その村の暮らしを支えているのがなんだったのかが見えてくるはずだ。
本書には江戸期から明治にかけての、典型的と思われるいくつかの山論が紹介されている。
江戸時代の山論としてとりあげられている出羽国の天領・山口村のケースは、とてもわかりやすい。
この村の場合、入会地である山は、採草・落ち葉掃き・薪作りなどに主として利用されていたらしい。
そこへ別の村による林地の開発が計画されたため、山論になったものである。
これに類するケースは、全国いたるところで、無数に発生していただろう。
明治になると、国家を相手どっての山論が起きる。
秩父地方でも、和名倉山をめぐる訴訟が起きていた。
江戸時代には、山の所有権ではなく、利用権が問題だった。
そもそも、所有権という考え方自体が存在しなかった。
そして公儀や領主はトラブルの解決に、もっぱら当事者同士の内済(示談)をよしとした。
明治になると、利用権の基礎に所有権がなければならないという考え方が基本となった。
山の所有権か誰にあるのかが改めて問い直され、国家がここでは調停者ではなく、法的争いの当事者となる。
だが明治になって、山の所有権が確認されたとしても、それは利用されることを必ずしも前提としていない。
木材生産などの形で山を利用することによって富を得る富裕な人々もいたが、山を不動産として売買によって利益を得ることもまた、可能となった。
本書に出てくるような山は里山に限られるが、山は利用されることによって維持される。
それが山と人とのまっとうな関係である。
明治は、その関係が壊され始めた時代でもあったと言える。