戦争論の大家と知的エリートの対談。
十五年戦争の失敗が「なぜ負けたのか」という視角から論じられることがしばしばある。
もちろん、「なぜ負けたのか」も重要な視角であることに違いはない。
戦争ヤダヤダと言ってれば事足りるとは思っていない。
19世紀の世界においては、「強国」が「強国」でない国々を植民地化することは、特に悪しきこととは考えられていなかった。
だから明治期の指導者は、国家の存亡ということをかなり深刻に考えていたらしい。
日露戦争直前、伊藤博文はロシアを訪れて戦争回避に動いた。
また伊藤は、開戦後ただちに金子堅太郎をアメリカに送り、アメリカの斡旋による終戦の道を探らせている。
伊藤のこれらの行動は、日露戦争に敗北すれば、「日本」は当時の清国同様、ロシアを始めとする列強によって国家主権を破壊されるという危機感を背景にしていた。
ところが実質的に国家を動かしていた、昭和期の軍の指導者の行動から、そのような危機感は殆ど感じられない。
戦争が始まれば勝利のために尽力するのは普通だろうが、戦争前に「もし負けたらどうなるか」ということを想定していたように見えず、降伏が濃厚になった時点で彼らの関心は、自分の責任をいかに逃れるかに移っていたようにみえる。
歴史書からこぼれ落ちるような諸事実を、本書は数多く語っている。
戦争史に関する多くの歴史書は大雑把な流れを淡々と記述するが、ここで語られているような細かな事実から歴史を再構成することが必要だろう。