将門の乱の意義を述べた書。
将門の経済基盤は、私営田だけでなく、二つの官牧の牧司だった点にもあると、著者は述べている。
馬は、古代末以来、主要な移動・運搬手段であり、戦争に使われる武器でもあった。
それを使う者にとって、馬の質は大きな問題だが、当時、良馬の産地は関東・東北であり、馬の生産は、経済的にある程度の収入たり得たという。
秩父地方にも牧が存在した記録があるが、その実態はわかっていない。
秩父に田地はほとんど存在しなかっただろうから、盆地の中に何らかの区画がなされて、馬を放牧したものだろうか。
そこで牧の管理を担当した人々は、経済力・武力を持ち得たはずである。
将門だけでなく、彼を倒した貞盛や秀郷たちの武力も、「従類」と「伴類」の二重構造になっていたらしい。
「従類」は、領主である「武士」との絆が深く、「武士」と一体となって戦うが、「伴類」は館からほど近いところで暮らす人々で、出挙や各種職業面で「武士」に従属する立場にある人々で、戦争のときにはさほどあてにならない。
同族間の軋轢や朝廷との行き違いが反乱の原因とされているが、客観的な史料等が存在しないので、その経緯について確たることはわからない。
反乱に立ち上がりはしたが政権構想を持たなかった将門は、在地の「武士」を組織することができず、朝廷の戦力になった「武士」により、滅ぼされた。
彼の敗北は当然だったとは言え、ずいぶん後になって実現する武士の時代が見え始めたのは、この時代だった。