数種類存在する職人尽絵から、歴史的にどういう事がわかるかをわかりやすく説き明かした講義録。
ここに登場するのは、教義の「職人」にとどまらず、生計を立てる上で営まれる「農」の営み以外のあらゆる仕事に従事する人々である。
平安時代までの一般庶民の暮らしはよくわからないのが実情である。
大きな消費地がないので、商品生産がさほど発達しておらず、自給できないモノはおそらく、一定の地域経済圏の中で生産・消費され、塩など一部の必需品は、さらに大きな全国的な経済ネットワークにおいて流通していたのだろう。
また行政に必要な物品は、律令制時代から国家機構の一部が生産を担当しており、商品として生産されていたわけではなかったようだ。
鎌倉時代以降、武士や公家が集住するとともに庶民が流入して、京都・奈良が都市化した。
都市経済が成立して、商品やサービスが需要され、ここに描かれたような「職」に従事する人々が発生した。
多くの職人は、作業にあたって身につける衣服に身を包み、烏帽子をかぶって働いている。
これらは、のちに一般都市民となる人々の源流にあたる。
それ以外に、遊芸能者や各種清めにあたる人々もいて、聖なる人々とみなされ、烏帽子をかぶらず、異形とされるいでたちで道を往来した。
これらの人々は南北朝期を境に、一転して賤視されるようになった。
女性に商人がいたのはもちろんだが、遊芸能で身を立てる女性はやはり、その時代以降、賤視の対象となった。
異形であることが聖視され、そして賤視されるようになった必然性について、完全に解明されたとはいえないが、清めることにより目に見えぬ汚穢で恐るべきものが人格に乗り移るとでもいうような感覚があったのかもしれない。
それにしてもそのような職人なくして社会は成り立たなかったのであって、東山文化も成立し得なかったのである。