檜枝岐奥の暮らしの聞き書き。
道路が開通する前の檜枝岐は、相当の奥山だったはずだが、述者が暮らしたのは、本村でなく、その奥の開拓村だった。
税も何もなくても、檜枝岐の暮らしは厳しかっただろうが、ここで暮らしに苦闘する人々がいた。
この人々は町へ出るということをおそらくあまり考えずに、代々、とてつもない雪の中で命をつないだらしい。
述者が若者の時は、ヒノキやマツを切って曲げ物を作ったとある。
このマツとはヒメコマツのことだろう。
彼はそのときに盗伐で逮捕され、処罰を受けている。
山にある木の実・動物・魚を獲り食べて暮らしていた人々にとって、誰のものでもない山のものをとることが盗みになるとは、青天の霹靂だっただろう。
彼らが開拓に入ったのは、大津岐川に沿う一帯だが、そこへ行き来するには本村のキリンテから大津岐峠を越えねばならなかった。
戦後彼らは、大津岐に見切りをつけ、砂子平を開拓する。
このあたりは、渋沢温泉に行くのに、何度か通ったことがあり、それらしき出作り小屋があった。
開拓地での暮らしは、他の雪国同様、夏の間は農作業とイワナ釣り、冬は杓子作りと狩猟だった。
本書の後半部分は狩猟に関する物語だが、述者にとって狩りは楽しみでなく、あくまで生活の糧を得る手段の一つだった。
本来はそれがあるべき姿だと思うのだが。