「日本」の国家像に関する政治家のグランドデザインの提言。
いかなる国もそうだと思うが、19世紀の世界の環境は、それぞれの国の民衆意識に固有のナショナリズムを刻印している。
植民地化による苦悩を体験した国と帝国主義化を実現した国とでは、ナショナリズムの様相はまったく異なる(と思われる)。
「日本」は後進帝国主義国だったから、民衆は、先進帝国主義(欧米諸国)に対するコンプレックスと、植民地(アジア・アフリカ)への優越感・蔑視観を具有していた。
明治時代以来、体制側と反体制側を問わず、国家リーダー・メディアや知識人は、「日本」の大国化を「進歩」と同義に考えて、政策を定め、あるいは煽ってきた。
帝国主義化は有害無益だという考えを体系化したのは石橋湛山であるが、湛山の思想は根強い支持者を得つつも、「日本」のメインストリームたることはできなかった。
この流れは戦後もまったく変わっておらず、アジテータたちは、「○○大国日本」を叫び続けているが、じつのところ「日本」の身の丈は「大国」とはほど遠い。
世界経済や国際力学の中で「日本」がどうあるべきかを、現実に即して構想したのがこの本である。
鳩山氏の議論は要するに、相互依存と共生という理念によって世界との関係を構築すべきだという点に尽きよう。
それは正しいと思われる。
唯一気になるのは、氏の「政治主導による政策形成」という考え方である。
首相時代に官僚から足を引っ張られた経験を持つからか、鳩山氏の官僚不信は根が深いように見える。
官僚は官僚であるがゆえに既得権や既得路線に拘泥するものであるが、豊富な経験や実務力を持つのも官僚だろう。
「内閣人事局」は、アメとムチで官僚を調教する装置であるが、これが設置されたことにより「忖度」政治が出現した。
官僚の既得権は、ねじ伏せるのでなく対話と説得により変えていくべきものと思う。