二・二六事件のリーダーだった磯部元陸軍一等主計の手記・書簡集。
処刑された磯部が言いたかったことが、この中でほぼ、言い尽くされている。
第一師団と近衛師団の一部部隊を率いて決起した叛乱軍は、数名の重臣を殺害して、その日のうちに東京の中枢部を占拠した。
帝国陸軍としては前代未聞の不祥事と言えたが、陸軍上層部の相当部分は決起将校に共感的であり、昭和天皇の断固たる姿勢がなければ、結果がどうなっていたかは、わからない。
ともかく、腹心を殺害されたことに激怒した昭和天皇の、叛乱軍に対する姿勢は、状況がどうあれ、微動だにしなかった。
これに逆らうことは、制度上も全く不可能だったのであり、叛乱は四日間で瓦解し、決起将校と北一輝ら数名の民間人は逮捕されて、軍法会議にかけられることになった。
弁護人なし・一審で結審・秘密裁判で、結論は最初から極刑と決まっていたようなものだった。
処刑が終われば、軍の秩序は回復され、「皇道派」が一掃されて「統制派」がヘゲモニーを握る。
永田鉄山亡きあと、「統制派」のホープが東条英機だったことを考えれば、このクーデターが失敗したことが太平洋戦争にどう結びつくのか、考えさせられる。
決起が失敗に終わったあとも、状況に流動的な部分も、多少は残っていた。
軍法会議の結果次第では、将校らが無罪になり、彼らが望んだ天皇親政・軍部独裁が実現するかもしれないと、本人たちは考えていたようである。
彼らがそのように考えるのには、根拠があった。
決起当日に陸軍大臣告示と称される文書が示され、そこには叛乱軍の行動を是とするという文言が含まれていた。
それなら、自分たちの行動が陸相さらには天皇にも認められていたはずだと磯部は主張する。
また27日に叛乱軍は、戒厳軍に編入され、首都の警備を命じられた。
これは、戒厳司令官が叛乱軍を正規軍と認めたことにほかならない。
決起した叛乱軍を陸軍最上層部は、二度にわたって、正式に承認したはずではないか、というのが磯部の一貫した主張である。
これらは事実だから、結局、磯部には黙ってもらわねばならなかった。
二・二六事件の裁判とは、そんなことだったのである。
磯部らは天皇親政を実現すべくクーデターを実行した。
しかし昭和天皇は、あくまで天皇機関説論者であり、決起将校らの思想とは対極にある人物だった。
手記の中で磯部がついに、天皇を糾弾するに至るのは当然だった。
しかし、磯部自身がどのような社会を実現しようとしたのかは、相変わらずあまりはっきりしない。