二・二六事件の軍法会議について検証している。
橋本欣五郎らが関わったクーデター計画や五・一五事件の処罰が微温的だったのに対し、二・二六事件のそれは苛烈だった。
度重なるクーデター未遂の処罰が緩かったことが、首都中枢における叛乱や閣僚・重臣殺害のハードルを下げたと言えようが、政治家のみならず、陸軍トップ(渡辺教育総監)を機関銃で殺害した行為まで事実上容認するのは、軍の統制上、看過できなかった。
まして、叛乱軍に対し天皇が激しい怒りと憎悪をもっていることがわかっているのだから、事件を指導した将校らへの厳罰は、必至だった。
軍における規律違反なのだから、当時の法律では軍法会議における審判となるのはやむを得ない。
しかし非公開・弁護人なし・控訴審なし・公判開始から2ヶ月で判決・判決1週間後に処刑という審判は、異常である。
将校たちに喋らせたくないという軍上層部の意図が丸見えである。
昭和天皇の苛烈な意志が伝わるまで、戒厳司令官を始め、陸軍指導部は叛乱に同情的ないし日和見的な態度だった。
決起の行動を諒とした陸軍大臣告示や、決起部隊を鎮圧部隊の隷下に編成するなど、陸軍の対応には一貫性がなく、それをきちんと追求すれば、責任ある人間が続出する。
喋られたくないのは、農村を始めとする苦難に対し、政府・軍上層部が無策だという現実について、喋ってほしくないということだったのだろう。
もっとも決起した将校らがアテにした荒木・真崎らはそもそも、そのような現実に関心などもっていなかった。
皇道派将官に幻想を持った時点で、また「天皇親政」に幻想を持った時点で、彼らはポチョムキンの叛乱兵ではなく、あまりに無残な悲喜劇の主人公と化してしまった。