相沢事件とその前後における陸軍内部の論調について描いている。
昭和前期の陸軍においては、統制も統帥も成り立っていなかった。
関東軍は政府・参謀本部に従わず、独自の判断と戦略をもって戦闘を開始し、政府・参謀本部・天皇は、いたずらにそれを追認していた。
統制派といい、皇道派といっても、内には軍部権力の拡大を意図し、外には満州占領を実行する方向性に、本質的な変わりはなかった。
統制派がどちらかと言えば、参本上層部に属し、将校による「下克上」に嫌悪感をもっていた程度だと思われる。
相沢三郎中佐が永田鉄山軍務局長を陸軍省で斬殺したのは、皇道派真崎甚三郎が教育総監を罷免されたことへの憤懣が原因だった。
事件の当日、相沢は永田に直接、辞任を勧告しているのだが、陸軍トップの人事について、将官でもない一将校が、どうして容喙できるのだろうか。
相沢の属した皇道派の重鎮は真崎と荒木貞夫だったが、この両名に、体系だった思想性はなにもなく、いずれも「お調子者」としか、言いようがない。
彼らが最も力を入れたのは、「国体明徴」などの掛け声のもとに、天皇機関説事件を始めとする、学者への圧迫だった。
これはもはや、「陸軍崩壊」というほかない。
なお、永田が存命であれば太平洋戦争は起きなかった等の言説もあるらしいが、対米英戦を指導した東条英機は永田の弟分だったのだから、それも怪しい話である。