昭和初年における、『東洋経済新報』での石橋湛山の主張を紹介している。
大正期における湛山の「小日本主義」は、「大正デモクラシー」の一環として、しばしば紹介される。
しかし、論述家としての真価が試されるのは、軍だけでなく、マスコミも国民も、世の中が挙げて満州攻略を当然視し煽り立てていた時代に、絶望的に「侵略反対」と叫ぶだけでなく、合法的に大正期の議論を曲げずに粘り強く主張し続けることだった。
命がけで反戦を叫ぶことも立派かもしれないが、監獄の中でそれを言い続けることに、どういう意味があったのか。
それは、改宗を拒んだ隠れキリシタンと、変わるところがない。
それは、自己満足にはなっても、悪化していく政治や社会に、なんのインパクトも持たない。
満州不要論を唱え、ファシズムを批判し続けた『東洋経済新報』は、読者にそうした主張を届け続けた。
それは、この国の良心だった。
陸軍は、世界に背を向け、独善的な主張で政府も天皇も相手にせず、大陸への侵攻を続けた。
国民はそちらへ追随し、マスコミもまたしかりだった。
湛山は、ブレない。
状況は次第に悪化していったが相変わらず、「小日本主義」の立場から日本の進路を論じている。
石橋湛山は、いうまでもなく、のちの自由民主党総裁である。
彼は、大日本帝国の進路はかくあるべきという論陣を張った。
彼の議論は、帝国「日本」を否定する社会主義の立場からの議論ではない。
昭和初年の湛山の論説は、記憶されていい。
海軍の一部トップ(井上成美や米内光政ら)の存在も、忘れてはいけない。
ブレまくりで頼りなかった昭和天皇だって、大陸侵略や対米英戦を積極的に推進したわけではなく、少しばかりは抵抗した。
湛山は、満州へ軍事的に侵攻するのでなく経済面に絞って投資すべきと説いた。
井上や米内は、対米英戦を回避しようとした。
昭和天皇は結局、強硬派に流されたが、政府や軍がしっかり「輔弼」すれば、道を誤ることがなかったかもしれない。
十五年戦争をどうすれば回避できたか。
牢屋の中で反戦を叫んでいた共産党には、社会に働きかける、なんの力もなかった。
歴史は、さまざまな力がからみ合い、影響しあって紡ぎ出されていく。
支配者と被支配者の階級闘争という形で単純化しては、歴史の実相は見え難い。
「良質な保守」がどのような役割を果たしたのか、という観点からも、しっかり見ていかねば、歴史を見誤る。