「京都大学の墓碑銘」「天皇機関説事件」「陸軍士官学校事件」をとりあげている。
この巻の主たるテーマは「学問の自由」だが、滝川事件・天皇機関説事件ともに、学問の側が敗北した。
読んでいると胸が詰まる思いであるが、これらは、敗北の記録として記憶されなければならない。
滝川事件は滝川幸辰氏の刑法学説に対する、政治家や右翼思想家の攻撃だった。
氏の学説の詳細について論評する能力は持たないが、比較的リベラルなその説が神がかり的な国家観と相容れないというのが、攻撃者たちの言い分だった。
天皇機関説事件もそうだし津田左右吉事件もそうだが、この時代は、その学説が神がかり的な思想をバックボーンにしていなければ、国体に反するという名目で、いかようにも攻撃されてしまうという状態だった。
作家や批評家であれば、沈黙も可能なのだろうが、学者は、自分の説を講義で学生に説いたり、啓蒙書を書いて一般に普及したりすることをやめるわけにはいかない。
滝川事件の際には京都大学法学部の教授会や学生が抵抗した。
当然である。
教授の中には抵抗から脱落する人もいたが、それを責めるのは酷だろう。
滝川氏の人柄を云々する記述も見られるが、それは、ことの本質とは無関係だ。
問題があったとすれば、どうして京都大学だけでなく、全大学人の闘いにできなかったのかという点だろう。
学問の自由という、大学にとって本質的なところが攻撃されているときに、「自分のところで起きたのでないから静観しよう」という大学人がほとんどだった事実こそ、恥じるべきである。
学問の自由のために闘わない学者は、偽物だ。
天皇機関説事件もまた、やるせない。
美濃部達吉氏の学説は、リベラルというより、ごく当然の考え方であり、定説中の定説だった。
美濃部氏自身、尊王家だった。
神がかり学者とお調子者政治家が寄ってたかって、美濃部説をねじまげ、彼を国会と学会から放逐したのである。
最後に彼は右翼に自宅を襲われ、負傷する。
ここにいたっても、他の学者たちは無力だった。
これらは、この「国」の学問の根が浅かったことを示す歴史であるが、さて、現在はどうだろうか。