「スパイ"M"の謀略」「小林多喜二の死」をとりあげている。
知っておくべき戦前「日本」の暗部が、ここに記されている。
小林多喜二については、その名前だけが高校教科書に出ているが、彼がどのような殺され方をしたのかについては、書かれていない。
おそらく歴史の先生の中にも、多喜二の死について何も知らない人がいるだろう。
思想警察は、明治時代から存在したといえば、存在した。
自由民権の時代には、政府の密偵が暗躍した。
拷問は江戸時代から行われていたし、秩父事件の取り調べ記録には、史料の上部に「責付(せめつけ)」という書き込みがある。
社会主義・無政府主義・自由主義その他、国体思想に合致しないあらゆる思想を取り締まる部署が設置されたのは明治末年だが、「日本」においてそれが完成形となったのは、昭和期だった。
この時代の社会主義者たちの未熟さは、時代の制約上、やむを得ない。
労働者階級の生活向上や、侵略戦争反対のために、彼らが命をかけて抵抗しようとした事実は、記憶されなければならない。
ところがこの時代、思想警察をいち早く整備したのが、社会主義ソ連だったことは、皮肉である。
「日本」の社会主義運動は、十分な理論的蓄積を持つこともできず、コミンテルンの一支部として、ソ連の指示の下で活動していた。
その壊滅を図るために、思想警察は、スパイを運動指導部に送り込み、情報を収集するだけでなく、破廉恥事件(銀行強盗)を起こさせて組織を崩壊させるなどの仕事を行った。
純粋で誠実な一線の活動家は拷問によって殺害し、指導者は「転向」させて、運動を思想的に攻撃する立場に立たせる。
一部に非転向を貫いた人々もいたが、彼らが国内的に何の影響力も持たないところまで、運動は壊滅した。
もっとも華々しく活躍したスパイ"M"の正体は、本書が書かれた40年前の時点で、ほとんどわかっておらず、現状も同じである。
スパイ"M"は戦後、権力のいずれかの部署によって保護され、一般人として生涯を終えたのだろう。
同じく思想警察が暗躍したドイツの戦後とは、好対照である。