「天理研究会事件」「『桜会』の野望」「五・一五事件」をとりあげている。
天理研究会は、天理教の分派だが、天皇制を否定する教義が違法とされ弾圧を受けた。
民衆宗教の中で明確に反天皇制の教義を持った団体は少ないが、天皇制が一つの宗教である以上、天皇を信仰しない宗教が弾圧されるのは必至だったはずで、戦前に宗教事件が少なかったこと自体が、疑問である。
この巻のメインは、「桜会」と「五・一五事件」である。
1931年から1932年にかけて、帝国陸海軍の将校や民間右翼が中心となってクーデター計画が続発した。このうち決行に至ったのが五・一五事件だった。
1931年の三月事件と十月事件を主導したのは、橋本欣五郎(当時陸軍中佐)だったが、彼の計画には、宇垣一成を始め陸軍の将官・将校が多数関わっている。
橋本の考え方は基本的に、恐慌下の惨たる現実にあって、的確に対処し得ない政党政治家や私利に走る資本家を掣肘し、軍独裁を実現しようというものだった。
現実認識としては、民衆一般もまた同様だった。
三月事件は、計画段階で、宇垣一成の日和見によって挫折した。
宇垣以外にも、二宮治重・杉山元・小磯國昭ら陸軍将官が関与していたにも関わらず、誰も責任を問われなかった。
これにより、軍によるクーデターは罪に問われないという前例が作られた。
十月事件は満州事件開始後、再び、橋本により計画された。
計画は事前に発覚して橋本ら中心人物は検挙されたが、軽い処分に留められた。
やはりクーデターは、重罪ではなかった。
これらの動きに対し、昭和天皇はもちろん、一部の将官も快く思ってはいなかったと思われるが、筋の通った処罰ができるのはこの場合陸軍上層部だったにも関わらず、それを断行できる人物はいなかった。
これが、五・一五事件の伏線になった。
三月事件から十月事件へと続いたクーデターへの流れは、大川周明を通じて海軍の一部将校へ受け継がれた。
この事件で犬養首相が殺され、襲撃リストに入っていたにもかかわらず、牧野伸顕内相は無事だった。
牧野が殺されなかったのは、牧野から資金提供を受けていたらしい(証拠なし)大川が牧野襲撃を阻止したからであり、事件の黒幕は森恪だと、著者は推察している。
この点の実証はもはや困難だろう。
裁判の中で検察は、実行犯の心情に共感する陳述に終始し、国民からの減刑嘆願運動も広がった。
実行犯の将校たちはやはり、微罪処分となった。
クーデターは失敗したが、政治家・マスコミ・財界を怯えさせるには十分な効果をもたらした。
軍独裁は、侵略戦争を自在に実行できる体制だった。
「日本」はこうして、後戻りできないところへ進んでいった。