敗戦後、妻子とともに自決した陸軍報道部員、親泊朝省大佐の伝記。
教師(校長)の息子として生まれ育った親泊は、おそらく生真面目な性格だったのだと思う。
生真面目というのは、根から真面目だという意味である。
命じられたことだけはきっちりやる、という人もいる。
仕事は仕事、自分は自分と割り切って考えることができる人もいる。
しかし、職種にもよるが、素(す)の自分と仕事での自分を切り離しきれない人もいる。
親泊は、そのような人だったのだろう。
騎兵連隊の下士官として満州で武勲をあげた彼は、ガダルカナル攻防戦に参謀として参戦する。
第一線で戦った彼は、餓島の惨劇をつぶさに目撃したのち帰還し、大本営報道班員として、国民に対する戦争情報を提供する職務につく。
いわゆる大本営発表の筆者として、戦争が終わるまで、彼は「日本」の必勝を説き続けた。
それが彼の仕事であると同時に、信念だった。
信念がなければ、大本営発表など、書けなかっただろう。
軍部にとって降伏は屈辱であり、自分たちのアイデンティティの否定だった。
「勝つために耐えよ」「必ず勝つ」「貴方たちの死は無駄にならない」と国民に語り続けてきた人間が、「あれは業務としてやったことだ(従って自分の意志でしたことではない)」と開き直ることができるだろうか。
昨日までの自分の言動に責任を持とうとすれば、降伏はありえない。
一部の将校は、クーデターによって権力を掌握し、あくまで戦争を続けようとした。
そこに、日々失われていく命への想像力は存在しなかった。
陸軍のトップ(梅津参謀総長・阿南陸相)は、「聖断」を「承詔必謹」する姿勢を見せた。
両名の姿勢によって、陸軍部内の反発は抑えられた。
降伏を受け入れる流れが確定しつつある中で、親泊は、自分で自分を裁かねばならなかった。
「こころの法廷」で彼が下した判決は、死刑であり、(家族内でどのような話し合いがなされたかは不明ながら)妻子も彼に従うという、無残な結果となった。
親泊朝省とその家族の名前は、歴史から消え去りつつあった。
本書によって、戦争の時代に、必死に格闘していた人間の姿が浮かんできた。
この戦争について、「日本人」は徹底的に振り返るべきだった。
それをしなかったのは、大きな手抜かりだった。