「基地」と原発は次元が異なる。
本書のテーマとしては、「基地」と「憲法」だと思う。
著者の論点のうち、最もインパクトがあるのは、日本国憲法はアメリカ占領軍の手によって作られたものだという点だろう。
著者によれば、1945年から1946年にかけて戦後「日本」の骨格を作ったのは、アメリカ軍と昭和天皇だった。
戦後世代にとって、昭和天皇は象徴として、政治的な動きとは無関係な存在だったという印象が強い。
しかし、戦後しばらくの時期まで、彼は、国家の基本的な問題について深くアクセスしていた。
アメリカ軍にとって、占領を円滑に進めるという課題と「日本」の無害化という課題をこなす上で、昭和天皇は最適なツールだった。
戦争を開始し、戦争を指導したのはまぎれもなく昭和天皇だったが、占領統治に彼をうまく使うことは、アメリカ軍にとって重要な「作戦」だった。
天皇もまた、自分の責任回避・天皇制の維持のためには手段を選ばず、周到な準備の上で、占領軍との猿芝居を共演した。
最初の舞台は9月27日、マッカーサー・天皇会談だった。
ここで昭和天皇は、真珠湾攻撃の責任を東条英機に転嫁した。もちろん、東条にはこの件に関し、余計な発言をしないよう、口止めがされた。
また昭和天皇は、ポツダム宣言に沿った平和国家をめざすことに異議がないことを表明した。
この芝居は上出来だったらしく、マッカーサーは、昭和天皇が使える男だと思ったらしい。
次の芝居は、翌年冒頭の「人間宣言」だった。
芝居は、ソ連や中国も参加する極東軍事裁判が始まる前に上演されなければならなかった。
昭和天皇は、彼にとっての第二幕を、またも首尾よく演じきった。
天皇はこうして、いつの間にか、民主主義国家「日本」にとって不可欠の存在として、自己を再確立していった。
2月から始まった昭和天皇の地方巡業は、新しい天皇像を「国民」に周知徹底するという目的を十分に達成させ、彼はここでも、うまい役者ぶりを発揮した。
中国・ソ連が参加する日本統治機関である極東委員会が動き始めるのは1946年2月26日だった。
新しい憲法の骨格は、この日までに作られねばならなかった。
いわゆるマッカーサー草案が吉田外相に手交されたのは2月13日だが、同草案が受け入れられなければ昭和天皇が戦犯として裁判にかけられる可能性があるという脅迫を伴っていた。
「日本」政府にとって、これを受け入れない選択肢は存在しなかった。
日本国憲法は、民主主義国家の「象徴」としての天皇像を法的に決定づけた。
憲法制定によって昭和天皇はようやく、完全に命拾いすることになった。
「憲法」と「天皇」をめぐる著者の論旨は、おおむね以上だと思う。
憲法に関する議論は、このあたりを踏まえてなされるべきだと思う。