グンゼの創業者である、波多野鶴吉の伝記。
明治期の製糸業の肝は、品質管理にあったと思う。
生糸生産は、繭を煮て生糸を小枠に巻き取る糸取りと、小枠に巻かれた生糸を大枠へ巻く揚げ返し、および販売できる形態にする束装の三工程からなる。
秩父事件前に広く行われていたのは、これらの工程を個人宅で一貫して行う座繰製糸だった。
各製糸者がこれらの工程を自力で行っていたのでは、生産者により品質にばらつきが生じる。
輸出に際しては、均しく高品質な製品であることが求められるから、政府は、特権資本や行政権力を動員することによって、生糸の品質向上を図った。
秩父や群馬ではその後、座繰製糸家を糾合した産業組合組織が発達するが、いずれにしても品質向上は不可避の課題であり、つまりは、器械製糸への移行もまた、不可避だった。
綾部では、波多野鶴吉らによって、株式会社組織でこれが発達した。
彼らは富岡製糸場に学んでいるから、技術的には、最初から器械製糸で出発したと思われる。
群馬は養蚕・製糸に関しては先進県だったから、生産者の意識もおそらく高かった。
児玉や秩父は、群馬に遅れをとってはいたが、隣接県だったから、群馬の技術的影響を大いに受けた。
綾部はそうでもなかったかもしれないが、富岡から、国内最新の技術を学んだ。
綾部でグンゼを起業した人々は、特権資本ではなく、地域の志ある人々だった。
地域にとって幸運だったのは、何よりもその点である。
彼らが富の私的な集積を目論む人々だったら、会社は明治後半には金融業に走り、地域をいわゆる本源的蓄積の惨状に導いただろう。
郡是という社名がそうであったように、この会社は、地域の中で民富を創出することを目的として設立され、その原点はぶれなかった。
戦前期に、「女工哀史」的な経営にならず、従業員の人間形成を重視し続けることができた(と記されている)のは、そのような会社だからだろう。