1980年から1991年にかけて、帝国海軍の旧将官・旧将校が中心となり、「反省会」と称して、太平洋戦争当時の海軍の軍令関係についてフリートークする会が催された。
そこで語られた中には、組織や作戦に関するきびしいやり取りも含まれていた。
極めて重要な論点の一つは、開戦に至る経緯である。
独断行動により中国戦線での戦争を拡大させた陸軍に対し、海軍は対米英戦争に消極的だったといわれるが、戦争のための予算を獲得してきた手前、戦争したくないとはいえず、海相嶋田繁太郎はむしろ、積極的に開戦を主張した。
その伏線には、昭和初期から長期にわたって軍令部総長だった皇族・伏見宮の存在があった。
伏見宮は、行政サイドである海軍省より作戦を担当する軍令部を上に置く改革を行い、開戦に際しても、嶋田海相の背中を押した。
彼は、戦後ほどなく亡くなったため、戦犯指定されなかったが、嶋田は極東軍事裁判で海軍で最も重い無期懲役の判決を受けた。
特攻作戦への参加は「自発的」意志によるというのが、組織としての海軍が譲れない神話だった。
そうではなく軍令部の意志による「命令」だったはずだという発言もあった。
「反省会」に参加した旧将官は、「命令」を認めようとしなかったが、一方で、「これではいけない」と思いつつ誰もが沈黙した組織のありようを痛切に批判する旧将校もいた。
敗戦後、戦犯裁判が予想される中で、旧海軍は、組織をあげて軍令部の戦争責任隠蔽を図った。
軍令部は、捕虜の虐待・殺害を極力、現場の責任に転嫁した。
上官の罪を隠蔽すれば、罪は現場にかぶせる他ない。
かくて現場の責任者が、処刑された。
軍令部の責任とは、つまりは天皇の責任だった。
現場の無念の処刑によって天皇の免罪を贖ったのである。