自由民権運動の意味についてトータルに考えた書。
著者は、近世社会を規定していた社会集団(一般には「身分制」と呼ばれる)が戊辰戦争の段階で解体し、人々は、次にどの社会集団に属すべきか、迫られるようになったと述べる。
その後、武士にとっては「藩」が、百姓にとっては「村」が解体し、さらに多くの人々が所属場所を求めねばならなくなった。
それに答えるべく叢生したのが、政治結社を含む諸結社だったと、著者は言う。
こうして、人間どうしの新しい結びつきを模索する動きとして、自由民権運動が登場する。
従って、自由民権運動が掲げた理念について、本書ではあまり深く検討されない。
加波山事件は、国士気取りのグレ者が起こした暴発にすぎないと評価される。
秋田事件や秩父事件に際し民衆が実現しようとしたのも、一種の解放幻想と評価される。
これだと、自由民権運動に実体はなかったといっても過言でなくなる。
「富」への志向や社会変革への展望などは、確実に存在したと思う。
自由民権運動は政治運動である。
例えば秩父事件の場合、その底流には「富」や人間的解放(=自由)への志向が存在し、その実現を妨げる制度変革がめざされたと考える。
本書は歴史に関する書であるが、歴史を描こうとしているとは感じられず、歴史を記号的に処理しようとしているかに思える。
それは研究者にとって「飯の種」にはなろうが、読む者にとっては、ダンボールを食わされているほどに味がない。
今から50年以上以前に書かれた『日本近代史』などからは、時代を生きた人々の息づかいが聞こえてくるような気がするのだが。