生還した特攻隊員は、原隊に戻されず、収容所に隔離・軟禁された。
福岡市にあった「振武寮」が、その収容施設だった。
出撃した特攻機が帰還することは、作戦上も十分あり得たことだった。
目的地である沖縄周辺の天候を知る能力を、日本軍は持っていなかった。
悪天の場合、目標を視認することが難しく、作戦を遂行することが不可能になるから、引き返すほかなかった。
また敵に発見されれば、旧型機で性能が低く、操縦技術に乏しい上、巨大な爆弾を抱いているため、突破は困難であるから、これまた引き返すしかない。
そもそも整備不良のため途中でトラブルに見舞われ、墜落・不時着したり、かろうじて帰還するなどの例も多かった。
本人たちは、必死の任務を遂行できなかったことに対し、深く罪の意識を抱いているのだが、天候不良や機の故障や敵の迎撃は、本人の責任ではない。
しかし、必死を前提に飛び立った特攻機は、生還することを想定していない。
生還した隊員たちは、生きていてはいけなかった人々なのだった。
振武寮に収容された隊員たちは次の出撃機会が与えられるまで、罵倒・暴行・虐待に耐え続けねばならなかった。
本書は、彼らを担当した参謀・倉澤清忠少佐に聞き取りして書かれている点で、貴重な記録だといえる。
生きて帰った隊員たちに虐待の限りを尽くした倉澤少佐は、もちろん生き残り、近年まで存命だった。
倉澤氏は、この証言を残すことで、自ら行ったことに対する責任を果たされたと言うべきだと思う。