1945年8月14日の御前会議で終戦が決定され、起草された詔書の決定・昭和天皇による録音という流れの中で、宮城を守護する陸軍近衛師団が戦争の継続を求めて反乱を起こし、宮城が一時は占拠された。
この事実は、歴史教育の中では、伏せられている。
反乱を計画したのは、一部の将校だった。
終戦(ポツダム宣言の受諾)が決せられたのは、天皇の決断によってだった。
それを否定しようとしたのだから、彼らは天皇の断を否定しようとしたのである。
当時の日本人にとって、それは論理的に可能だったのだろうか。
彼ら将校は、天皇への忠誠より、自分たちは「国体」に忠誠を誓うのだというロジックを用いている。
彼らに共通しているのは、平泉澄の門下生だったという点である。
天皇より「国体」が優位にあるという論理の淵源は、平泉澄の歴史学にあったようだ。
天皇は生身の人間であり、意志や感情を持つ。
同時にまた、大日本帝国憲法によって規定された存在でもあった。
平泉史学は、個々の天皇の意志や感情や憲法の規定などより、もっと本質的なもの(すなわち国体)が「日本」には存在するのだという思想なのである。
従って彼らは、昭和天皇の誤った決断に従う必要は必ずしもなく、反乱の邪魔となる人物は、重臣だろうが上官だろうが、殺害するのもやむなしと考える。
法など所詮、小賢しい人間が考え出したものにすぎない。
それも事実だが、ならば人間の行動を律する原理は何なのか。
法は世界を律する根本原理よりはるかに浅薄なものだという考えは否定できないが、人間にとって最低限のルールは存在しなくてはならないのではないか。
ともかく彼らは、行動を起こし、そして失敗した。
彼らは上官の命令に違反し、上官を殺害した。
彼らが行ったのは、命令違反・命令の偽造・反逆・殺人である。
彼らは明らかに、重罪を犯した。
ところが、彼らの多くは犯罪者として逮捕も処罰もされていない。(反乱者たちが靖国神社に合祀されたかどうかは未確認)
反乱の計画段階から中心的な役割を果たした井田中佐は、大企業の役員として生活した。
近衛師団の白石中佐を斬殺した窪田少佐は、郷里に帰って一生を終えた。
反乱の中枢部にいなかったとはいえ、終始シンパとして動いた竹下中佐は、自衛隊の将官になった。
これらは、国家機構が、彼らの犯罪を事実上追認したことを意味する。
国家そのものが、犯罪を追認したのである。
法も天皇も超えた原理を、国家自体が共有していたと言わざるをえない。
将校たちの行動は、理解できなくない。
最後の一兵になるとも戦えとは、国家が唱導してきたことである。
彼らが、自らもまた発したその言葉に責任を持とうとするならば、降伏など、ありえない。
そもそも、最後の一兵になるとも戦えというコトバ自体が、論理的に破綻しており、荒唐無稽だ。
それは馬鹿げていると言えなかった当時の「日本」の空気が狂っていたのである。
「勝つ」「頑張る」「一位になる」などのコトバには、注意したほうがよい。