大峯で千日回峰行を行った青年僧と禅僧の対話。
回峰行とは、118ヶ所の祠・お堂にお参りしつつ登山する修行である。
大峯回峰行の場合は、吉野山から山上ヶ岳までの24キロの山道を往復する。
千日回峰行はそれを千回繰り返す。
これは、釈迦によって否定された苦行である。
釈迦はバラモンを否定したが、仏教成立後も苦行を続ける修行者はいたはずだ。
聖なるものとされた僧は、じつは聖なる存在ではなかった。
僧は、権力者にへつらい、権力の庇護のもとに富と権威と権力を三昧する存在だった。
衆生の救済を説く仏教は、権力の道具だった。
大峯での修業に入った役行者が、眼前に現れた釈迦・千手観音・弥勒を却下したという伝説は、そのことを象徴しているようにみえる。
本書の中に、自利行より利他行の方がより高い修行であるという記述が出てくる。
修行は、結局のところ他者のための修行だという発言が何度も出てくるのだが、本当だろうか。
そのようなコトバに空々しいものを感じるのは、なぜだろう。
宗教を語る際に、衆生の救済というようなところに話を持って行かなくては、話が完結しない。
一般の宗教は全て、語られる宗教である。
語られ、受け入れられることによって、同朋が増えていくと、組織を運営し、組織を維持しなければならなくなる。
組織を動かす原理は、信仰とは関係がない。
利他行に価値を見いだす時点で、信仰の純粋さが失われてしまう場合もあるのではないか。
本書の中で何度も語られていることだが、信仰・修行は、自分自身を見つめる行為である。
それが他者に益するかどうかは、どうでもよいことである。
修験道をややニーチェ的に解釈し過ぎかもしれないが、修験の魅力の一つはそこにあるのではないか。