浄土真宗の流れの中には、江戸時代に、権力や世間から信仰を隠蔽した人々が存在した。
そもそも、列島の諸大名の中に、真宗信仰を禁じたものがいたということ自体、認識していなかった。
本書で言う「隠れ念仏」は、南九州の島津・人吉の両大名の領地に分布する。
大名権力から信仰を隠蔽するが、本願寺への志納金の上納は欠かさない人々である。
南九州にはまた、「隠れ念仏」派から派生したと思われる、「カヤカベ」なる信仰グループも存在した。
彼らの信仰は、純然たる真宗教義とは異なり、神道教義と混淆し、本願寺との関係も絶つというものである。
東北地方に分布した「隠し念仏」派も、権力からも本願寺からも信仰を隠蔽し、独自の信仰を伝えてきた。
寺檀制度によって権力機構の一部と化した江戸時代の仏教の中で、戦国時代以来の真宗の教義を密かに伝えようとするグループが南九州と北東北に存在した。
彼らの信仰は時代とともに変容し、その一部は真宗正統派たる本願寺とも相容れない信仰と化していった。
浄土真宗がもっていた徹底した平等思想は、江戸時代になって骨抜きにされた。
これら地下に潜った真宗の流れもまた、先鋭的な思想的を保持していたわけではなく、脈々と受け継がれる中で、ある程度の形式化は避けられなかっただろう。
「隠れ」派は、近代以降現代に至るまで、隠れ続けてきたが、今ではむしろ、隠れ続けること自体か困難になりつつある。
これらの信仰は、風前の灯だという。
ことによると、遠からず消滅してしまうかもしれない。
だが、禁教の時代を耐えぬいた信仰が思い出されることがないとは言えまい。