長岡藩幹部として戊辰戦争を戦った河井継之助の伝記。
薩長軍にとって、戊辰戦争は徳川家を再起不能なまでに叩く最大のチャンスだった。
それは、一元的な支配権を持つ中央集権国家を創出する上で不可欠だった。
一方、公儀政体派と呼ばれる大名連合政権を模索する流れもまた、強力だった。
中央集権体制は小国家としての大名の存在を否定することによって完成される。
とすればそれは、大名にとって望ましい権力体制ではなかった。
大名連合は、旧来の支配者たちにとっては、十分に説得力のある権力機構だった。
会津にとって、戦いの大義名分は、支配階級の全体利益を代表するものでないにもかかわらず「官軍」を僭称し、罪科のない徳川家や会津藩主を誹謗し、攻撃を加えてくる薩長軍の軍門に下るわけにはいかないという点にあった。
はっきり言って、民衆にとってどうでもよい理屈だったろう。
会津が敗北した要因の一つは、民衆に見放されたことだと思うが、人間的には十分魅力的な人物だった河井の壮絶な死もまた、本質的にはそのように捉えるべきだろう。
ここでしっかり学ぶべきは、明治政府が凄惨極まりない流血の上で産声をあげたという事実である。
この戦いに勝利して権力を握ったのは薩摩藩・長州藩でさえなく、戦闘や作戦を実質的に仕切り、後に民権派によって「有司専制」と批判されながらも専制国家樹立に邁進し、特権階級となったテクノクラートたちだった。
従って、戊辰戦争終結によって、権力闘争が終結したわけではなく、動乱の時代はまただ続く。