城山三郎氏がどのような体験を背景に何を描いたかを語った書。
著者による、城山氏への思い入れが伝わってくる。
著者も城山氏も、飾ることなく、剛毅で、責任感が据わっていて、筋を通すような人間が好みなんだろうと思われる。
人間はやはり、そうありたいものである。
昭和という時代の前半は、この国を「大義」が支配していた。
「大義」とは、個人の思いや信念とは全く別次元に存在した、国家理念である。
それがよいことかどうかはさておき、この国では、帰属する集団の上に個人を置くことを「ワガママ」として排斥する心情が支配している。
その原因が江戸時代に支配的だった名分論の残像によるものか、水田耕作を始めとするこの国の農のあり方と関係づけられるのかは、わからない。
昭和前半までの「日本」では「大義」が、戦後には「国益」が、ものを言いたい個人を黙らせたのだが、「大義」には、なんの実体もなく、それをテコにして「国民」を動員し、特権に群がる少数の人々の財産と名誉を増大させる役割を果たした。
政治家にも官僚にも財界人にも、名前ばかりの「大義」や「国益」に踊らされない人々が、少なからず存在した。
城山氏が掘り出したのは、そのような人々だった。
現状の「日本」が抱える本当の危機は、安倍政権が叫ぶような「外国からの侵略の危機」ではない。
与党の政治家や官僚などの中にも、わかっている人はわかっているはずだ。
実体のない共同利害のようなものに踊るほど、馬鹿げたことはない。