戊辰戦争時の会津攻防戦についてまとめた書。
学校で教えられる歴史は、戊辰戦争について簡単にふれるだけなので、生徒の中で、この内戦はおそらくほとんど記憶されないだろう。
しかし、それでいいのだろうか。
会津側にとっての大義は、自分たちは幕府・天皇双方への忠義を果たしてきており、逆賊呼ばわりされるいわれはないという点だっただろう。
会津から見れば、薩長側に比べれば、自分たちの方に理があると考えるのは自然だといえる。
しかし薩長にとって、もっとも重要なのは、モノ言う諸藩を壊滅させることだった。
それなくして三年後の廃藩置県クーデタはおぼつかなかったから。
この時点でほとんどの大名は、封建制を自明のものと考えていただろう。
薩長は西日本の大名たちに踏み絵を踏ませ、内戦に動員した。
薩長側についた大名たちは、自分の領地を安堵する上でそれが有利と考えていたに過ぎないだろう。
会津を徹底的に叩くことは、味方に加わった諸大名たちに対し、モノ言う者がどんな目に遭わされるかを示す意味もあっただろう。
会津はそのような薩長側の意図にハマったことになる。
とはいえ、戦争が始まった時点で勝敗の帰趨は未確定であり、会津(=奥羽越列藩同盟)の戦い方によっては、戦争の長期化あるいは東国政権の樹立という可能性もなくはなかった。
会津の戦い方が不徹底だったのは、戦争の大義が不明確だったからだろう。
封建諸侯同士の戦いでは、勢いと戦力にまさるほうが勝利することになる。
東山道での戦いで赤報隊が果たした役割は、小さくない。
戦後支配の青写真を示して世直し闘争と合体して戦えば、戦況は大きく変わっただろうが、会津藩にそのような発想はカケラもなかった。
薩長側の会津処分は苛酷だった。
この処分を徹底することで新政府の土台が固まったわけだが、会津には深い怨念を残すことになった。
血と腐臭を伴いながら、維新政府は誕生したのである。
そのことは、高校生も知っておいてよいのでしないか。