自由民権運動は何だったのかを考える上で示唆に富む論集。
編者が執筆されている第一論文「自由民権と近代社会」が、民権運動に関する総括的位置づけを行っている。
市場獲得に向けて牙をむく欧米諸国とつき合っていくために、「日本」も近代化を強いられた。
維新を主導した人々が天皇を中心とする国民国家を形成しようとする一方で、民衆も、幕藩制時代とは異なる主体を形成しようとしていた。
自由民権運動の時代とは、「日本」に固有の「近代」的主体形成の時代だった。
時代の主体形成を、政治的主体という枠に押し込めることに、あまり意味はない。
新井論文が言われるように、それは、新たな「結合の文化」だった。
この時代に、農業生産や商工業に関する結合や、趣味・宗教に関する結合が、広範に形成された。
「日本」における近代的主体形成は、明治期「日本」の歴史的・時代的条件に規定されて、特徴づけられた。
政治的主体の形成に際し、百姓一揆の記憶が掘り起こされたように。
国家による「近代化」の論理は必ずしも、民衆の主体形成の論理と整合しない。
杉山弘論文(「コレラ騒動論」)は、その不整合を鮮やかに描いている。
本書最後の稲田雅洋論文は、氏の以前からの議論を踏襲したものである。
「負債農民騒擾」は政治運動としての自由民権運動と次元を異にするという点は、以前から指摘されていたことである。
負債と土地に関する伝統的民衆意識については、鶴巻孝雄氏が最初に指摘したと記憶する。
たいへん説得力のある議論であるが、「農民」にとっての土地の重要さが、地域によりかなり異なっているという意味で、それをもって「負債農民騒擾」のすべてを解明するには、無理があると感じる。
稲田氏の秩父事件論は、秩父事件における政治性を重視しない点で、一貫している。
しかし、政治性がないことをもって「二重権力の歴史をほとんど経験しなかった日本の民衆が、政治権力を独自の方法で相対化していった貴い記念碑的な道筋」という形で評価するのは、秩父事件の「褒め殺し」にほかならない。