1990年代後半以来、「日本」の労働は、「自己責任」「仕事の細切れ・マニュアル化」「成果主義」へと流れていった。
終身雇用や年功序列型賃金に象徴される「日本型雇用」に対する、若い労働者の反発もあって、こうした労働形態は、大きな抵抗を受けることなく、「日本」の職場に定着していった。
バブル崩壊後の不況の中で、どんな形であれ働きたいという「買い手市場」が続いていたことも、労働者にこうした働き方を受容させる力となった。
そんな中で、一部の企業に、極限まで効率を追おうとしたり、眼前の利益が究極の目標であるかのような拝金主義が入り込んできた。
「日本」の企業は、程度の差はあれ、「地域のため」「従業員のため」に経済活動を行っているという意識をもっていた。
そのような認識は、事実そのものであり、的を射たものである。
企業は「株主のため」に存在するというような意識は、2000年代に入ってから顕在化したように思う。
もちろん株主も経済の重要な構成主体であるのだが、株主はあくまでも投資者にすぎない。
株主は顧客でないし、働きもしない。
企業は、地域から労働者の提供を受け(逆の言い方をすれば雇用を提供し)、労働者に労働してもらうことによって(労働者に賃金を提供して)、利益を生み出す。
企業の利益は、雇用や賃金というかたちで、まずは地域や労働者に還元され、さらなる剰余があれば株主への配当に回る。
それが従来の企業のあり方だった。
投資ファンドなどと呼ばれる組織的された株主が登場して、株主への極限的な還元を求めるようにもなった。
そうした流れの中で、労働者を機械の一部品のように扱い、消耗品として使い捨てる風潮がまかり通るようになった。
マルクスが初期の作品の中で告発したのと同じ、絵に描いたような労働の疎外がどこにでも見られるようになった。
人をモノと同じように扱う制度・法律・風潮には、抵抗すべきである。